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嵐山町web博物誌・第5巻「嵐山町の中世」

COLUMN

5.コラム:各地に残る重忠の伝承

 埼玉・東京・神奈川を結ぶ鎌倉街道の道沿いには各地に重忠の伝承があります。とくに関東の西部一帯に重忠の伝承が集中します。その背景は、直接重忠の領地があった場所をはじめとして、一族の者やゆかりの人々に関係があった土地がこの地域に広く点在していたことにあると考えられます。畠山氏が名門秩父氏の嫡流として、武蔵国留守所総検校職(むさしのくにるすどころそうけんぎょうしき)という行政官を代々つとめた家柄であり、武蔵武士の総頭領的立場にあったことと無関係ではないでしょう。
 そして、そうした伝承が今日まで語り継がれてきたところに、あらためて重忠という人物の大きさを感じさせてくれます。
 このコラムではそうした伝承地をたずねてみることにしましょう。

西多摩の伝承

 東京都青梅市の西部の山間部を通って西多摩地域を南下する道筋は、秩父鎌倉古道と呼ばれています。この道は秩父から鎌倉へと向かう近道で、重忠も何度となくここを往来したと考えられます。
 この地域は、重忠にとって単なる通過地以上の深い関係をもっていたのでしょうか。沿道各地には重忠に関する数多くの伝承が息づいており、後世まで重忠を慕う人々が多かったことが偲ばれます。
 御嶽山(みたけさん)の山頂にある御嶽神社には、重忠が奥州合戦の軍功により賜った領地に城を築いたのがはじまりという伝えがあり、神社の宝物として国宝に指定されている赤糸威の大鎧は、太刀とともに重忠が奉納したものということです。  付近には重忠の開いたと伝える寺社や軍旅の途中で休憩した場所などの伝承が十数カ所も伝えられています。

御嶽山重忠騎馬像
御嶽山重忠騎馬像|写真 昭和56年に神社の式年大祭(12年に1度)の記念に建立されたアルミ製の騎馬像です。宝物殿わきにあります。
御嶽神社拝殿
御嶽神社拝殿|写真 青梅市の御嶽神社には国宝に指定され日本三大鎧の1つに数えられる赤糸威(あかいとおどし)大鎧があって重忠の奉納と伝えられています。
即清寺
即清寺|写真 鎌倉への往還の際に必ず参拝していた明王堂が荒れはててきたので重忠が造営した寺と伝えています。東京都青梅市にあり寺号即清寺は、重忠の法名「勇讃即清大禅定門」からつけたとされています。
六郎重保の墓
六郎谷|写真五輪塔|写真 横浜市金沢区の釜利谷地区は重忠の領地であったと伝えられています。重忠の首塚や、愛用の馬具を伝える東光禅寺などがあります。とくに六郎谷という場所には嫡男六郎重保の墓と伝えられる五輪塔があって禅林寺では毎年ゆかりの人々が集まり供養が行われています。

重忠伝説と神仏の信仰

 重忠は、主君頼朝に従って二度目の上京の際、明恵上人(みょうえしょうにん)(法然〈ほうねん〉上人の誤り)に会って仏道についての教えを承った話が伝えられています。誠実で思いやりに満ちたあたたかい重忠の人柄は、こうした信仰心にもあらわれているといえます。
 重忠の信仰心が篤く、各地の寺社を敬っていたことは、重忠が開基したという寺や宝物を奉納したという神社が数多く存在することによっても知ることができます。現在、数え上げるとおよそ四○以上の寺社が重忠との関係を伝承として伝えています。その全てが事実と認めることはできませんが、生前に多少なりともゆかりのあった地域では、後世の人々が重忠の清廉な人柄を慕い、長く顕彰し続けてきたことを理解することができます。

真光寺
真光寺|写真 ときがわ町日影にあり、畠山重忠が開基と伝えられています。
田守神社・重忠橋
田守神社|写真重忠橋|写真 八王子市上川町にあります。重忠が鎌倉行軍中、兜の鉢に納めていた守り本尊を紛失し、そののちこの本尊を田の守護神として神社に祭ったという伝えがあります。また、神社のそばの川口川に架かる橋は重忠橋と呼ばれています。
畠山重忠供養塔
畠山重忠供養塔|写真 東光禅寺内にある五輪塔。
東光禅寺
東光禅寺|写真 横浜市金沢区釜利谷にある重忠開基と伝える寺です。寺宝には重忠愛用の馬具があります。
馬引沢峠と重忠小休の里
馬引沢峠|写真重忠小休の里の石碑|写真 青梅市梅郷から五日市方面へは馬引沢峠を越えるのも1つのルートと考えられています。重忠が馬を下りて徒歩で峠を越えたところから馬引沢の名がお こったと伝えられています。峠のふもとには古いおもむきを残す小道が今も残っていて、石川家の庭先には重忠が腰をかけたという腰掛石があったといい、「畠山重忠小休の里」と刻まれた石碑が建てられています。
慈光寺観音堂
慈光寺観音堂|写真 ときがわ町にある慈光寺はかつては75坊を擁した大寺院で奥州藤原氏追討にあたり源頼朝の祈願寺となるなど、その後鎌倉仏教界に大きな地位をしめます。記録によれば数多い寺僧の最高位である別当職には重忠の伯父であった厳耀(げんよう)や重忠の子、重慶(じゅうけい)・円耀(えんよう)兄弟の名前も見られ、畠山一族と深い関わりのあったことが知られます。観音堂の秘仏と伝えられる十一面観音は重忠の念持仏であり、重忠の等身大(180.1cm)につくられたといういわれがあります。