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嵐山町web博物誌・第5巻「嵐山町の中世」

2.源平合戦と畠山重忠

頼朝の重臣として、重忠は目ざましい活躍をします。

頼朝の挙兵と重忠の参戦

 重忠が十七歳の1180(治承4)年8月、源頼朝は平氏討伐の兵を挙げました。重忠は、父の重能が京都で平宗盛に仕えていたためいったんは平家に味方しましたが、その後同じ秩父一族の河越重頼、江戸重長らとともに頼朝に従いました。
 このとき重忠は、先祖がかつて源義家から授けられた白旗をかかげていったことから、頼朝はたいへん感激をしたということです。ただちに頼朝は、重忠に対して三万余の大軍の先陣を命じました。関東随一の名族畠山氏が頼朝軍に加わったことにより、武蔵、相模の武士たちは相次いで頼朝軍のもとに集まってくることになります。こうして、東国における平氏の勢力は一掃されることになったのです。

源頼朝画像/国宝
源頼朝画像|写真 (京都市右京区神護寺蔵・京都国立博物館提供)
藤原隆信筆と伝えられています。頼朝は、1147(久安3)年源義朝の三男として生まれました。平治の乱で平家軍と戦い敗れ、伊豆に流されますが、1180(治承4)年平家軍追討の兵を挙げ、1192(建久3)年征夷大将軍に任じられ、鎌倉幕府を開きました。
秩父一族の系図
秩父一族の系図|画像 秩父氏は、高望王につながる桓武平氏の家柄で、板東八平氏の一つです。重忠の父重能の時、深谷市畠山に移住し、その姓を名乗りました。秩父氏一族には、畠山氏、河越氏、江戸氏がいますが、畠山氏はその嫡流となっています。
宇治川古戦場跡
宇治川古戦場跡|写真 京都府宇治市宇治橋付近。戦いの行われた当時も春の雪解けで増水していました。

重忠の活躍 鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし

 重忠は、京都へ向けた木曽義仲追討軍にも先陣として加わり、華々しい活躍を見せ多くの手柄をたてています。
 特に、1184(元暦元)年義仲と戦った冬の「宇治川の先陣争い」も有名なエピソードです。馬を流された重忠は、水をくぐって川を渡りますが、その背中につかまってきた大串重親(おおぐししげちか)を怪力で岸に投げ上げてやったというものです。さらに、一の谷攻めの「鵯越の逆落とし」は源義経の奇襲戦法として有名ですが、ここにも重忠のエピソードが登場します。重忠はその怪力と勇猛を発揮し、愛馬三日月を背負って谷を下りたという話が、『源平盛衰記』には語られています。

鵯越の逆落とし
鵯越の逆落とし|写真 (下図部分拡大)
一の谷に陣を構えた平家軍攻略のため、義経軍は背後の急峻な鵯越から急襲しました。この際、重忠は愛馬三日月がかわいそうだと、背負って下りたといわれています。
一の谷の戦い
源平合戦図屏風|写真
『源平合戦図屏風』(大阪府高槻市霊松寺蔵・平凡社提供)
一の谷の戦いは鵯越(ひよどりごえ)からの奇襲作戦が成功し、源氏軍の大勝利となりました。熊谷直実が我子と同じ年頃の少年平敦盛を涙ながらに討ち取る悲話などでも有名です。