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嵐山町web博物誌・第4巻「嵐山町の原始・古代」

3.生業

稲作の合間に

多様な暮らし

 米は、口に入るまでに八十八の手間をかけるとも言われます。人々の生活は稲作を中心に動くようになりました。それでも忙しい田仕事の合間を縫って、畑作、養蚕、紙漉、漁業、狩猟などなど、土地柄を活かした多様な生業が営まれていました。そのほか日常使う道具類も、自分で作ります。こうした光景は、実はほんとうについ最近までの農家の姿とほとんど変りがありません。

俵編み(県立さきたま資料館提供)
俵編み|写真 行田市周辺では、近年までハチニンボウズと呼ばれる八個のおもりを使用した薦や俵編みが行われていました。
編物石出土状況(東落合遺跡、古墳時代)
編物石出土状況|写真 古代の住居跡を発掘すると、片隅から、細長い棒状の礫がまとまって出土することが良くあります。これは編物石と呼ばれ、薦や俵を編むときのおもりと考えられています。
小敷田(こしきだ)遺跡木簡(県立埋蔵文化財センター提供)
小敷田遺跡木簡|写真 「畳二十五枚、絞薦八枚、立薦二枚、合わせて百二十枚」と記されている。数が合わないので、失われた部分に他の85枚分の記載があったものでしょう。延喜式によれば、武蔵国は蓆の貢進が義務づけられていました。編物石の出土から薦(こも)や蓆(むしろ)の生産が日常的に行われたことがうかがわれます。
畑の跡(群馬県埋蔵文化財調査事業団提供)
畑の跡|写真 群馬県有馬遺跡で発見された古墳時代後期の畑の跡です。整然と盛られた畝がわかります。畑作の実態を伝えてくれた数少ない遺跡の一つです。
現代の紙漉きの様子(国指定重要無形文化財、小川町教育委員会提供)
現代の紙漉きの様子|写真 武蔵国男衾郡からは中男作物として紙が納められていたことが文献に記されています。おそらく楮やみつまたなどの和紙の材料となる木が栽培されていたものと思われます。伝統は現在に受け継がれています。
炭焼窯跡(年中坂B遺跡、滑川町教育委員会提供)
炭焼窯跡|写真 オオムラサキゴルフコース内の遺跡群からは、焼けた土や炭の詰まった土坑がたくさん発見されています。奈良・平安時代以降つくられたと見られる炭焼の施設です。遺跡群の中の辛酉遺跡や天裏遺跡からは鍛冶炉が発見されており、炭を自前で作り使用したようです。

土錘からたどる漁業

 古代の遺物の中に、土錘という小さな素焼の製品があります。形はいろいろですが、みな中心に紐通しの穴が貫通しています。これは投網につけたおもりです。住居跡から数十個がまとまって出土することもあります。住人が投網漁をしていた動かぬ証拠です。
 嵐山町周辺は、川や沼、溜池がとても多い地域です。棲息する魚類の種類も豊富です。水の恩恵に預かるところは大きかったに違いありません。投網だけでなく、釣りや梁漁なども行なわれたことでしょう。平城京から出土した木簡には、男衾郡から背割り鮒が天皇に献上されたことが記されています。

土錘(六丁遺跡出土)
土錘|写真1 土錘は楕円形や円筒形をして、中央に紐通しの穴が貫通しています。長さ3cm前後の小さいものと、4cmを越える大型品があります。
土錘(金平遺跡出土)
土錘|写真2
男衾郡川面(かわづら)郷木簡(平城宮出土、奈良文化財研究所提供)
男衾郡川面郷木簡|写真 右から2番目の木簡には男衾郡川面郷から大贄として鮒の背割りが差し出されたことが記されています。贄とは、天皇家に納められた貢ぎ物です。全国から水産物や山の幸が貢進されました。鮒の背割りがどのようなものだったかはわかりません。保存食品としては既に鮨がありました。ご飯の間に魚肉をはさみ、乳酸発酵作用を利用して魚肉を長期保存したものでなれ鮨といいます。現在の琵琶湖畔の鮒鮨などに名残をとどめます。
投網を打つ様子(嵐山町観光協会発行絵はがきより)
投網を打つ様子|写真 河川や溜池の伝統的な漁法として現在でも行われています。錘は土錘から鉛に代わりました。
現在の粕川(かすがわ)
現在の粕川|写真 市野川の支流粕川は、4kmほどの小さな流れですが、現在でも小魚が豊富です。
鉄の鏃(やじり)(六丁遺跡出土)
鉄の鏃|写真 シカやイノシシ、ウサギ等を狩って食用としていたのでしょう。 日本書紀によれば、牛・馬・犬・猿・鶏の宍(肉)を食べてはいけないとの禁令がでているので、裏を返すと食べる人もいたということになります。豚は食用として飼育されていたと考えられています。
簗(やな)漁の様子(新潟県川口町)
簗漁の様子|写真 川の流れに杭を打ち、出口に簀を設け、上り下りする魚の習性を利用して簀に打ち上げられたところを手づかみにします。日本書紀にも記載があり、古くから行われた漁法であることがわかります。