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嵐山町web博物誌・第4巻「嵐山町の原始・古代」

3.前期のくらし

先進文化の波及

物と人の動き

 古墳時代になると、関東地方にも生活の中の変化が出てきます。具体的には物の形の変化に現れました。まず土器が変わりました。それまでの弥生の土器には、細かい縄目の文様が施されていました。新しい土器には文様はなく、非常に薄く作られています。土師器と呼ばれる素焼の土器たちです。台付甕というかたちが広まりました。底部に足をつけて炉の地面から浮かせることで、熱効率を高めた煮炊き用の甕です。嵐山町北田遺跡では、口の形に特徴がある通称S字甕と呼ばれる台付甕が出土しました。これは東海地方で生まれた外来の形で、極限まで薄く作る、とくに技術を必要とする土器です。この時期に人々や先進技術の交流があったことを物語っています。
 また、家の形も変わりました。それまでは、いくつかバラエティのあった竪穴住居の平面形が、整然とした正方形の家に規格化されていったのでした。

台付甕(だいつきがめ)(北田遺跡出土)
台付甕|写真 口縁部の断面が拡大写真に見るようにS字状に屈曲するのを特徴とします。町内では他に発見されていません。
五領式土器(五領遺跡出土、東松山市埋蔵文化財センター蔵)
五領式土器|写真
これらの土師器は、関東地方の古墳時代前期を代表する土器型式となっています。前時代の弥生土器とは器種や製作技法に大きな隔たりがあり、東海地方や西日本の影響が強く反映されて成立したと考えられています。
東松山市・番清水(ばんしみず)遺跡全景(金井塚良一氏提供)
纒向遺跡出土の東松山市・番清水遺跡全景|写真 大形の方形周溝墓と集落跡が検出されました。1967年のこの遺跡の発掘調査は、古墳の築造が始まる一方で方形周溝墓もまた存続していることを明らかにしました。
集落の復原模型(かみつけの里博物館提供)
集落の復原模型|写真 群馬県内の黒井峯遺跡・中筋遺跡は火山噴火で埋もれた集落遺跡です。厚い火山灰に覆われて、住居や畑の跡などが当時のままに残されていたのを基にして典型的なモデルムラを復元しています。

コラム2:火災住居の謎

北田遺跡の火災住居跡
北田遺跡の火災住居跡|写真 古里にある北田遺跡では焼け残った炭化材が住居跡の床面に散乱した状態で検出されました。出火の原因は不明です。
花見堂遺跡の現況
花見堂遺跡の現況|写真花見堂遺跡の現況|図面
2基の古墳と8カ所の住居跡が発掘調査された遺跡は現在では住宅地に変貌しています。

 嵐山町で発掘調査された古墳時代前期の住居跡の中には、火災に遭っているものがいくつも確認されています。ムラの中の1軒、2軒ならば火の不始末だったかもしれません。しかし、大字むさし台の花見堂遺跡では、調査された8軒の家すべてが焼失していました。住居はほぼ同時期のものです。事故か事件か?遺跡には真相を探る手がかりは残されていませんでした。
 この時期、関東にはいろいろな文物が西方からもたらされました。人の移動もあったでしょう。人々は、目新しい道具や先端の技術を進んで受け入れたようです。しかしその一方で、水利や豊かな土地をめぐっての争い事もあったようなのです。花見堂遺跡の焼失住居はそうした争いの証言者なのかもしれません。

復元された古墳時代の竪穴住居(長野県立歴史館屋外展示)
復元された古墳時代の竪穴住居|写真