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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

四、村の地名

第5節:特殊な地名

地形地物によるもの

▽えの木町

 吉田村に榎の木町、杉山村にえの木田がある。十二世紀の頃天台宗の大僧正で、良覚僧正という坊さんがいた。大へんに怒りっぽい性格であった。その坊のかたはらに大きな榎の木があったので、人々は「榎木僧正(えのきのそうじょう)」といった。僧正は「こんな名はけしからん」というので、その榎を伐ってしまった。然し根が残っていたので世人は「きりくひの僧正」といった。僧正は益々腹を立てて、その切株を掘りすてたが、そのあとに大きな穴が出来て水が溜ったので、今度は「堀池(ほりいけ)僧正」といわれた。徒然草にある話である。坊の傍などにはよく榎の大木が繁っていたらしい。千手堂橋を渡って鎌形に入り、もとの県道を五十米ばかり進んで右に曲ったところに、榎の古木が並んで立っている。昔、寺の参道の両側にでもあったのではないかと思われる形に並んでいる。道の左側には地蔵様が静かに佇(たたず)んでいる。委員の報告によると、このあたりを「おかね塚」といい、又その付近に、「おしおき場」の地名もあるという。榎は、山野に自生する落葉の喬木で、幹は六十尺以上に伸び、太さも、直径三、四尺になるという。この大木のある場所は人の目印になり易いので、寺とか塚とかの付近には、この木が植えられてあったのだろう。先の旧道をそのまま南に向って三百米ばかり行くと、道の左手に又、一本の榎がある。傍の石碑は表に弥陀の坐像を刻出し、功徳主鎌形村女講中と記してある。その先は平地蔵と供養塚である。矢張りこの旧道に沿って玉川村との境まで五十米ばかりの辻ヶ谷戸にも同じように心(しん)をとめた榎の切株がありその下に地蔵様が立っている。玉川村との境にもこの木があって、その根元から、清冽(せいれつ)な清水が湧き出ていて、昔、通行人ののどをうるおした。これは今はない。榎は寺や塚や塔や人々の関心の集る場所の目印しとなっていたらしい。榎の木に小峯の榛名講のお礼をたてている。木の宮にもこの木がある。水田地帯の真中である。このような大木は、木蔭になるので耕地には邪魔ものである。昔、木のかたわらに何か祀ってあったのであろう。木の宮の名前がこれを示している。榎の木町、榎の木田は榎から出た名であろう。元金町の意味は分らない。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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