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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

四、村の地名

第4節:地形と地名

平沢

 平沢の名は古く吾妻鑑の文治四年(1188)の条に、武蔵国平沢寺の院主に求寛という僧が任ぜられたとあるから、それはここの平沢寺のことであろうと、「風土記稿」に記してある。平沢寺は天台宗で正しくは成覚山実相院という。平沢寺の名は平沢の地名によって、この名を称したものであろう。鎌倉の初期よりも更に古く、地人はこの地を平沢と称していたのである。然しこの平沢の地域が、今の平沢と一致していたとは限らない。恐らくこの地域内に平沢と呼ぶにふさわしい、水に恵まれた谷があり、これを平沢と呼びはじめたのであろうが、水に恵まれた広い谷は、人々の生活に好適であったため、珍重されて関心の中心となり、この地域人だけでなく、他の人々の間にも有名となった。君はどこかときかれて郡町村名を言っても、他国人には解らない。武蔵嵐山のそばですよ、といえば、東京人にもすぐわかる。武蔵嵐山が目印しとなるからである。これと同じである。平沢といえば、人々はどの辺かを直ちに了解出来た。この目印しの地名が次第にひろがって、平沢村が出来たのであろう。だから平沢全体の地形から、平沢の意味を発見しようとしても無理である。はじめは一つの、割合にせまい地名であったが、それが極めて重要な地区の名であったため、だんだんひろがって平沢村となったのであろうと考えられる。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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