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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

四、村の地名

第4節:地形と地名

谷戸の地名

 次に谷戸の名前を見ると、田や久保の名と比べて難解なものが多い。強いて解釈すると、却ってこじつけになって、事実とかけはなれるおそれがある。これは谷戸の土地が早く開けた証拠である。これに比べると「ヤツ」の方がはるかに常識的である。ヤツは、谷戸よりも後の開発のためであろう。あまりこじつけにならぬ程度にそのいわれを考えて見よう。
 志賀村の大木ケ谷戸は、矢張り大木が目印しとなって生れた地名であろう。古来より日本人は大木や古木を貴び大切にする国民である。神社の杜には必ず御神木があって、神様の超自然的な偉力を象徴しているし、野中の一本杉や、古い松の木の根本には何時、誰が祀ったともしれず、小さな祠が建てられている。大木は村人の関心の的であった。大木といえば誰にでもその地区を了解することが出来たのである。だから越畑にも大木の地名があり、これが人の姓となり、又、その大木を中心にして大木前とか、大木入とかいう地名が出来ている。広野村の扇谷も、元は、大木ヶ谷(ヤツ)ではないかと思うが、実際に谷の形も扇状をしているという。
 鍬ケ谷戸は桑ケ谷戸とも書いてある。どちらでもよいとすれば、鍬にも桑にも縁がないともいえる。「クワ」という言葉が問題となるわけだが、これは推理が及ばない。
 殿ケ谷戸は、広野の場合土地の人は「とんがいと」=「飛ガ谷戸、遠ケ谷戸」とも考えているようであるが、然し殿ヶ谷戸の訛ったものという考え方も無視できない。
 知明ケ谷戸は、後に出て来る。さいもじやとは「さいもじ谷戸」と思うが全く手がつかない。千手堂の親ヶ谷戸は志賀の祖父ヶ入と共に何かわけがありそうだが、これも今のところ不明である。
 鎌形の辻ケ谷戸は、道路の集り交叉しているところがあってこれを目当てにして呼ばれた名であろう。志賀にも辻という地名がある。辻は、道路が縦横相交るところであるから、自然に人の多くが往来し、集合する場所になる。それで、つじには集まるとか合計とかいう意味も含まれている。年貢割符状の高辻というのは、年貢高の合計ということであるし、つじつまが合うといえば、総額と端数があって、矛盾がないということである。辻は道路が通じ、人の往来の多い地域であるとすれば、けわしい山間の細道や低湿の悪路の場所ではない。辻ケ谷戸という地名はまことに当を得ている。鎌形の辻ケ谷戸も、志賀の辻も、肥沃の田畑に恵まれた好条件の地域である。
 広野村の広野ケ谷戸は、村名の起原ともつながりがあると思うが(口上書によると「高木広正が広正寺をたてたので、その広をとって広野村といった」とあるが、これは無理な説明である)これはコウヤガヤトと読むのであり、高野ケ谷(高谷ケ谷戸)が本当だという説がある。この説は検討の価値がある。
 元来わが国は、起伏が多く、土地が狭少であったために、山腹の傾斜地は勿論、狭い谷間の奥までも開墾されて、田畑が作られた。古いものは何時のことか、長い期間に亘ったもので、その年代を指摘することは出来ないが、何々新田といわれる開墾は、徳川時代初期の検地の後の開発であるといわれている。この新田と並んで興野(こうや)という地名が各地にある。開墾地を意味する言葉で、高野と書いたり幸谷と書いたりしているのもある。これ等はいづれも本当の漢字は荒野(あれの)であり、荒野を音読してこれに通ずるよい字をあてていろいろの字を書いたのである。荒野といっても不毛のあれ野ということではなく、未開発の野原という意味である。「荒」が凶作を意味する不吉の文字であるため、荒野の字を避けて他の縁起のよい文字を用いたのである。高野は開発された野原の意味である。
 ところでこの野と原を下にもつ名字が、私たちの周囲にも非常に多い。これは「何野」、「何原」と呼んでいた土地を開発して、その「何野」「何原」に住んでいた人たちの子孫がその土地の名をとって、その名字としたのであって開発のはじめは鎌倉時代であったろうという。野と原がまだ本当の野や原であって、人間の生活に無関係に存在していた時代には、それが人の名字となる筈はないのである。開墾され、田畑が作られ、人が住むようになってはじめてその野、原の名が家の名にとり入れられるわけである。何野何原は開墾地であった。
 ところで野と原は、両方とも同じような地形で、広い平坦地のように思われているが、元来は全く別ものであった。「ハラ」は平野を意呼しているが、「ノ」というのは、火山国に最も多い山の麓の緩い傾斜の場所で、普通裾野といっている地形である。ここは水が豊富に流れ、日がよく照らして、居住にまことに快い。これが「ノ」の本来の意味であるが、人口が増えるにつれて、「ノ」の地名が、人のひろがりに伴って、他の場所までひろがって行き、本来のノでない場所も野とよばれて、広大な武蔵野などという地名も出来て来たのである。こうなると人々は「ノ」の本義を忘れ、野原などという言葉も出来て、両者とも同じものであると考えられるようになったのであるという。
 そこで広野村の広野ケ谷戸を見ると、正しくここは平坦な低地ではなく、「谷戸」と名付けるに相応しいすぐれた地形である。名をつけたはじめの頃「ノ」の意味を知っていたかどうか疑問であるが、ここは偶然「ノ」の地形である。これを開発したのであるから、興野の意味の高野である。この高野を同じ発音で広野とかけば、今度はヒロノと読む方が自然である。こうして「広野村」となったと考えることも出来るのではないか。然しこのようなくどいことを言わないでも、「広野ヶ谷戸」は「ヒロノ」から見ても「谷戸」から推しても、村の一等地である。この「広野ケ谷戸」がひろがって村名になったと考えてもよいわけである。
 道満ケ谷戸 珍らしい名前であるが、諸国にドウマン谷、堂満、東満塚などという地名の例がある。これはアイヌ語の「トマム、トマン」沼、沼地を意味する語から出たものだという。はじめて広々として、草木だけが荒れ茂っている殺風景な土地に土着した人たちは、先ず生活の環境をととのえることに忙殺されて、地名を呼ぶ場合なども、一々首をひねって考えていく余裕などはなく、ごく無造作に直接日常生活に重要な関係のあるものだけに、先づ名をつけたものであろう。この一つが「トマン」である。「トマン」つまり湿地が何故、生活上重要な関係にあったかといえば、アイヌは、稲を栽培しなかったから、湿地は交通上の大きな邪魔ものであった。然し自分に邪魔なものは相手にも又同じであって、敵の襲撃など考えた場合は、都合のよい防禦物である。アイヌにとっては重要な地形であったわけである。日本人の祖先にとっては、これとは別の意味で重要な土地であった。日本人の生活は米とともに始った。「トマン」は米の生産用地として好適の地形である。日本人なら先づ目をつける場所である。
 こうして、アイヌのいうとおり、日本人も湿地をさして、無造作に「トマン」といいはじめた。これが堂満のもとの言葉である。アイヌが去ったあとへ、新らしく日本人が来住したとすれば、先住者の呼び方などは知らないから、自分で新しい呼び方をはじめるだろう。
 「トマン」という言葉があることは、この地に暫く、日本人とアイヌが雑居していたことを示す。アイヌは水田をつくらず、湿地は邪魔ものであるし、反対に日本人には大切な米作の適地である。喧嘩の種にならなかったわけである。それで雑居したり隣合って住んだりすることが出来たのである。勝田村の道満ケ谷戸も、このようにして始ったとすれば古い地名である。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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