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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

四、村の地名

第1節:地名の由来

志賀村の地名

 「沿革」には各村とも明治初年の字地を書き上げて、その面積、筆数を示し、またこの字地の下にこれにふくまれるいくつかの旧字の名前を附記してある。志賀村に例をとってみよう。(面積と筆数はここでは関係ないので、旧字との関係だけを掲げる)

 字名     旧字
▽鶴巻    鶴巻 向原 我田分 千部塚 源八
▽向原    下新田 向原 菊沢
▽向イ    向イ
▽尾崎    尾崎 鍬ヶ谷戸
▽南町    裏 西裏 上ノ前
▽東町    裏 蚊山 柿ノ木田 下モ田
▽北町    裏 上蚊山 木ノ下 道光田
▽西町    裏 柿ノ木入 三角
▽殿ヶ谷戸  殿ヶ谷戸
▽仲町    仲町 上屋敷 川久保
▽押出    押出 上壱町田
▽壱町田   壱町田
▽吹上    吹上 山森田
▽蜻蛉橋   蜻蛉橋 寺前 竪町 下ノ森 ソヤ瀉
▽鼠島    鼠島 葭際 水深
▽我田分   我田分
▽久保前   久保前 浜井揚
▽本竹    トヲカの前 社宮司
▽松原    坊谷 松原
▽辻辻    新兵衛山 窪屋敷
▽深沢    深沢 奈良橋 町屋
▽小原    小原
▽大木ヶ谷戸 大木ヶ谷戸 六地蔵 石合 梅ノ木田 五反田
▽上ノ山   太谷山
▽清岩    清巌山
▽笹山    笹山 宮前 岡田
▽滝ノ入   滝ノ入 所柄 菖蒲ヶ入
▽諏訪ノ入  諏訪ノ入 前田 瀉田(浮田?)
▽池ノ入   池ノ入 蛭坪 梨子ノ木田
▽遠平    遠平
▽葭ノ入   葭ノ入 霧ヶ久保
▽水境    水境 長オネ
▽祖父ヶ入  祖父ヶ入 勝山
▽亀水    水境

 明治初年の字名は三十四ある。この三十四字は従来の古い字が二つに分れたり、古い字そのままのものもあるが、大部分は二つ以上の古い字を集めて出来たものであることが分る。何故、こうなっているのか。これは明治八、九年(1875、1876)の頃全国的に土地丈量が行なわれ、村毎に一分一間の大地図が出来たのであるが、この地図はあまり大きすぎて取扱いに不便であったから、どこの村でもこれを適当の大きさに切って複本を作り、出し入れに便利な切絵図にした。つまり志賀村の三十四の字名は、志賀村全図を三十四に切って、その一枚一枚に名付けた切絵図の名前なのである。これが結局字名となり公式の名称として用いられるようになったのである。
 この切絵図の字名は大部分は在来のものを引きついでいこうとしたのだろうが、字の境が新旧食いちがっていたり在来の字が小さくて新しい字の中に二つも、三つもはいっていたりした場合は、その中の一つを新らしい字名にすると、他の旧字名は自然に姿を消して公の記録からは見えなくなっていくことになった。志賀村では、七十九の旧字があった。これが三十四の新字になったのであるから四十五の字名が公の文書からは消えたのである。それでまだ百年たたないが、今はこの旧字の地域の分らなくなってしまったものが沢山あり、それ位であるから、読み方や名前のいわれなども不明のものが多いのである。
 さてこの場合は、行政上の便宜から字名が人為的に作られたり削られたりしたのであるが、そういうことがなくても、地名は自然に増減変化したようである。志賀村の旧字名は明治の初には七十九であったが、それよりも二百年ばかり前の寛文年間には百五の字があった。これは寛文五年の検地帳に記載されているものである。つまり前記の外に次のような字があったのである。

竹の花 宮ノ脇 歩越 金子田 ザラメキ 芝山 芝付 柳原 古川 宮田 下モ宿 津金沢 峯久保 船頭田 市ノ坪 焼米田 丸田 久保田 高田 籠田(芝際) 三反田 八幡免 千部経 柳町 畑合 金平 丸山オネ 芳久保 西屋敷 長畑 川端 ドウドウメキ 田通し 東屋敷 田島

 「以上百五字」と最後に註してある。寛文年間検地の時には、これが検地帳に記入されたのであるから、今の土地台帳の字名と同様に公の呼称である。これが明治のはじめには七十九に減っている。公の字名であり乍ら右に掲げたものはどこかに消えたのである。その代り千部塚、下新田、下ノ森、新兵衛山、太谷山、勝山などは、幕末までに新らしく生れたことになる。これらは寛文の検地帳には載っていない。
 地名はこのように古いものが消えていったり、新らしいものが生れ出たり、絶えず変っていることがここでもわかる。然し又中には寛文から明治現在と、はじからそのままの名で続いているものもある。このように変るものがあったり変らないものがあったりするその相(すがた)を私たちは歴史といっている。名地にも歴史がある。ある筈である。はじめに述べたように地名は人間の生活の必要上から生れたものだからである。人間や人間のつくる社会に歴史があるのだから地名にも歴史があるのが当然である。そこで私たちは、村の地名を研究して見ることにした。つまり地名の歴史を調べることによって、昔の村の社会状況や、人々の生活の様子を知ることが出来ると思うからである。前にいったとおりである。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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