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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

三、村の生活(その二)

第9節:鎮守様と共同体制

「風土記稿」の神社

 村の中には、家号で呼び合う仲間、何々組と称する組合、お日待組といわれる団体など、血縁地縁の小グループがあり、各々その内部で相依相助の生活が行なわれた。これらのグループは一つと一つが部分的に重なり合ったり、一つが他に含まれたり、又、二つ以上のものが竝立(へいりつ)的に結びついたりして、そこにも又共同の生活が展開されたが、これらのグループを包括(ほうかつ)した一番大きいかたまりは村であった。村は部落共同体の最後の枠であった。
 いくつもの小グループがあっても最終的には村というかたまりとなってそこに固定された。どうしてだろう。私たちはその理由の一つに、村の鎮守様があると考えるので、そのことを調べてみよう。村にはいろいろの社があった。「風土記稿」によって調べてみると次のようになっている。

▽古里村
 兵執明神社  村の鎮守   竜泉寺持
  愛宕社           同
  稲荷社           同
▽吉田村
 峯明神社    祭神不詳   泉蔵院持
 手白明神社   同      同
 五竜明神社   同      同
 六所社            村民持
 天神社            同
▽越畑村
 八宮社    村の鎮守   別当観音寺
  浅間社           観音寺持
  客人社           同
  大天社           同
  雷電社           金泉寺持
▽勝田村
 淡洲明神社  村の鎮守    百姓持
  天神社           同
  鹿島社           同
  稲荷社           同
▽広野村
 八宮社    村の鎮守    泉覚院持
  鬼神明神社         村民持
  金鑚社           同
▽杉山村
 八宮社    村の鎮守    大蔵院持
  天神社           同
  稲荷社           同
▽太郎丸村
 淡洲明神社  村の産神    村持
▽菅谷村
 山王社    村の鎮守    村持
  稲荷社           同
  天神社           同
▽志賀村
 八宮明神二社 村の鎮守    村持
  稲荷社           同
  諏訪社           同
  太神宮           同
▽平沢村
 七社権現社  村の鎮守    別当 持正院
  天神社
  稲荷社
▽千手堂村
 春日社    村の鎮守    村持
 番神社            同
▽遠山村
 八幡社    村の鎮守    遠山寺持
  稲荷社           村民持
  神明社           同
▽鎌形村
 八幡社    村の鎮守    別当 大行院
        (田里村玉川郷等の産神)
  瀬戸明神社         村民持
▽大蔵村
 山王社    村の鎮守    別当 安養寺
  愛宕社           安養寺持
  天王社           同
  神明社           同
  稲荷社           同
  諏訪社           村民持
▽根岸村
 神明社    村の鎮守    安養寺持
  三宝荒神社         同
▽将軍沢村
 山王社    村の鎮守    明光寺持
  大宮観現社         同
  神明社           同
  愛宕社           同
  稲荷社           明光寺持

 これで見て分るように、どの村にも数種の神社があった。そしてその中に必ず一社、村の鎮守がある。村の鎮守は他の社とちがって、村全体の神社であった。村民全体を氏子としていた。だからこの鎮守はいづれも明治のはじめ村社となって村内最高の社となったのである。
 明治三年の遠山村「鎮守其外社領書上帳」によると、

一、鎮守 八幡社
      祭神 天津児屋命
         保武田別之尊
 本社    但 壱間四尺 弐間 杉皮葺
 末社  稲荷大明神  脇五尺
  〆 村持
一、稲荷大明神
 本社   但 八寸 壱尺 板葺
  〆 源七郎 持
一、神明社
 本社   但 壱尺八寸 弐尺壱寸 杉皮葺
  〆     名主 啓三郎持
一、稲荷大明神
 本社   但 八寸 壱尺 板葺
  〆     与頭 □治郎持

とある。これが「風土記稿」の
 八幡社  村の鎮守   遠山寺持
 稲荷社         村民持
 神明社         村民持

に相当するのである。遠山寺持というのは、神仏混淆(こんこう)の時代であったから、遠山寺が八幡宮の祭祀に当っていたということである。これに対し村民持は、専門の神主に頼らず、村民自身神の祭りを行ったという意味である。一般に専従の神職のいる社は規模が大きく公共の社であり、神職のいないのは小さい私的の社と考えてよいだろう。遠山の場合は正にそのとおりであって、明治五年の「神社明細帳」には、八幡大神の氏子は二十三戸と書いてある。これは遠山村の全世帯である。村全体の社である。啓三郎持、与頭□治郎持の稲荷様や神明様を「風土記稿」に村民持とあるのは、村民であるところの啓三郎や□治郎が持っているという意味で、全体の奉祀というのではない。この人達のグループの私の社だというのである。これは他の村々でも大体同じであったと考えてよいだろう。
 このように様々の社があったが、とに角、村には必ず一つだけ鎮守様があり、これが村民全体をその氏子としていたことは間違いないのである。そこで問題はこの鎮守様がどんな風にして、村という共同体の成立に役立っているのかということになる。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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