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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

三、村の生活(その二)

第8節:村の共同生活

年中行事と共同体制

 以上が、委員座談会の内容である。然し私たちの年中行事は、これで尽きたというわけではない。話題に上らなかつたものが数多くある。これは古い人なら誰でもすぐ気のつくことである。それから又、ここにとり上げたものも、その内容が断片的で、一つの行事をはじめからおわりまで、残らず書くという態度がない。これも不充分である。も一つは発言者が片よっているので、地区的に偏頗で全村に及んでいない。だからその行事がごく特別のものであるか、一般的のものであるか、その区別がつかないなどという欠陥をもっている。
 然し私たちが年中行事をとりあげたのは、これを広く他の地方のものと比較して、その類似したところや、異っているところを明らかにしながら、年中行事の意味や由来を探究していこうというためではなかった。目的は、農作業と表裏一体して、年中行事といわれるものがあり、同じ時期に同じような行動が、共同体といわれる大小様々のグループの間で行なわれたことを知ればよいのであった。それで右にあげた座談会の話題だけでも、この目的を達するに充分な資料が含まれているので、一先ずこれで間に合わせることにしたのである。とはいえ、農作業や年中行事が共同して行なわれ、それが又共同の体制を固めていく働きをしたといっても、結局は、その行事の内容や事実を精細に調査していって、はじめてそれが導き出されるのであるから、これまでの仕事ではまことに不充分不徹底であることは否めない。よってこれは後日の研究に委ねたいと思う。

農事暦・年中行事の表
農事暦・年中行事の表

 さて右【上】の年中行事から、村の共同体制との関係を考えてみよう。先ず農事と年中行事の関係は右【上】の表によってうかがうことが出来る。表は昭和四十二年(1967)の太陽暦と太陰暦を対照し、これに二十四節気や、新節を書入れ、更に年中行事と農事暦を加えたものである。この表を見ると農作業と年中行事が表裏一体となって、労働と休養、作付けと収穫、災厄の防除と浄め、祈りと感謝などが、自然のリズムに従って、巧妙に組み合わされていることがよく分る。尚農作業中、米について小林文吉氏の説明をきくと次のとおりである。

 「三月(旧二月)になると田うないをする。この頃になると土が浮いて来てまんぐわで鋤き易くなる。冬の中はねばりがついていて、うないにくい。然し早めにうなった方がよい。四月に二度目をうなう。この時に堆肥を入れる。これがおそくなると草が出たり、土も乾きにくくなってよくない。湿田では秋に稲刈りをしたあと、えんぐわで溝を立てておき一ごうないの後に、廻りをぐるりと溝上げをし、二ごうないの後もまわりの溝を上げる。しけらすと地が瘠せるからである。
 苗代は八十八夜頃ふる。短冊苗代になったのは近代のことで、はじめは平苗代であった。平に田を掻いて、田の中に篠を立て、これを目印しにして種を放り込んだ。相当にあつ振りをしたものである。
 田植は旧五月のを中心とした中というのは夏至のことである。それより早いと、螟虫がつくといわれた。苗が細かったので数を植えた。
 田植えから三十三日を草ぞろいといった。肥料が少かったので成育がおそかった。田の草は植えて十五日から二十日たつと、一番ごをとった。七日から十日おきに三番ごまでとって終った。そして田を堅くするため土用乾しをした。そのあと八月廿日頃出穂水をかけ、穂が出て彼岸頃に落水した。
 稲刈りは霜が降って葉が白くなってからがよいといわれた。霜をかけないと、こうが張らないといった。肥料がないので稲は悪く最高五俵位であった。」

 米つくりはこのような順序で繰り返えされ、そのあい間あい間に、麦や、雑穀、野菜の栽培が無理なく組み入れられ、更に自然と農事の節々(ふしぶし)に年中行事の催しが織り込まれている。こうしていくつものグループの共同生活が展開していたのである。
 年中行事の共同的性格を現わす言葉に未熟者の節供働き≠ニいう俚諺が行なわれている。節というのは、一年の期間中にある折目のフシブシに当る日である。農事には自然の運行に伴って、その折目のフシブシの日があった。この折目折目の日には、農を休み神祭を催し、必ず何等かの供物を捧げて、神と人とが共食した。これが節供である。節日は自然と共にある折目の日であるから各地でその日はいろいろである。五節供といえば、正月元日、三月三日、五月五日、七月七日、九月九日、三節供は三月三日、五月五日、八月一日。又、正月十五日、盆の十四日、十二月十三日などを節供といっている地方もあるそうである。要するに農事を休んで神を祭る日である。この地方でも節供は大体このような意味でとらえていた。節供と称える日は定っており、それ以外の日は節供とは言わなかったが内容は節供と同じようにうけとめていた。これを遊び日≠ニいった。節供を含めて遊び日≠ヘすべて折目のフシブシの日であって、農事を休んでかわりもの≠作り神、仏に供える日であったのである。
 この〝遊び日〟に野良に出て働くのが節供働きである。平常怠けているから、みんなの休む時も、休んでいられない。未熟者である。というそしりもあるが、それよりも共同の体制からはみ出した変屈者だという非難の気持が強い。他人(ひと)の働くときに働き、他人の休む時には休むのが、共同生活の原則である。節供働きはこの原則にはずれている。これは単なる罪のない例外とは見られず、この原則を撹乱するものとして強く白眼視されたのである。遊び日でも家のまわりでこそこそと、人目につかぬ仕事をすることには咎はなかった。どこにも家庭の事情があるからである。大びらに、鍬を振って田畑で働くことがいけないのである。共同生活の秩序をかきみだすからである。東京に遊学中の学生たちは春や夏の休暇で帰省しても、日中、田圃道を呑気らしく、ぶらぶら歩き廻ることは遠慮したものである。田圃には村人たちが真黒になって働いているからである。この村人たちの間にのんびり遊ぶ姿をおいてみると、学生達は、いいしれぬ違和(いわ)感にとらえられたからである。然し、都会からハイキングの若者たちは、鼻うたを歌い、口笛を吹いて、平気で、麦刈りのそばを通りすぎていった。村人も気にかけなかった。帰省の学生は共同体制の中の人であり、都会の若者は体制外のものだからである。他人(ひと)と同じように働き、同じように休むのが、共同生活の鉄則である。年中行事はこのような意味をもつていたのである。
 共同体の秩序をかきみだす者には、強い反省が求められた。未熟者といって白眼視するのもその一つである。村八分という強硬手段のとられた場合もあったらしい。組のつき合い≠外されたという話も残っている。この種のものとして、年中行事の座談会にあらわれているのは、夏祭りのお神輿である。水田をふみこねてしまったり、戸障子をこわしたりして、お神輿があばれた。これは吝嗇(りんしょく)とか、変人とか、威張り者とか、日頃近隣からよく思われていない人であった。つまり共同体の秩序をかきみだす人だったのである。これは年中行事が、共同体の秩序を守るためにはたらいた面を示すものと見てよいだろう。
 年中行事はこのように村の共同体制を生み、これをかため、そのはたらきを助長するものであった。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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