ページの先頭

第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

三、村の生活(その二)

第8節:村の共同生活

冠婚葬祭

 祝儀、不祝儀の儀式などについても、グループ毎に特定の型が定っていた。大体の部分は共通していても、全く同じ型というのではなく。少し宛の異同があって、それがそのグループの方式として固定していた。永い間の共同生活がこの型を生み出したのである。一つの例をあげると、結婚式で嫁が婚家についた時の儀式について、
▽吉田では、一現(いちげん)の客は縁側から上り、嫁はとぼ口から家に入る。この時に嫁の頭上に菅笠をかざし、火をまたがせ、門杯(かどさかづき)を行う。(小林恒治氏談)
▽鎌形では、火をまたいでから菅笠をかぶせ、次に敷居を越してから杵(きね)をまたがせ、それから座敷に上る。(簾藤惣次郎氏談)
▽平沢では、笠をかぶせ、松明をまたがせ、杵をまたがせ、とぼ口で三三九度の盃をする。(奥平美太郎氏談)
 菅笠とか、松明とか、杵とか道具だては共通しているが、行動の順序は三者三様である。ここで門杯とか、三三九度をするものもある。門杯は親子杯だけをするものもあるし、三三九度は祝儀の席上で行なったり、別室で媒酌人が立合ってとり交わしたりする型もある。
 このようにさまざまの型が夫々のグループに固定しているので、婿と嫁と双方の型がうまく調和して、儀式がスムーズに進行するよう配意するのが媒酌人とお相伴の大切な役目である。それで祝儀の席が始る前に先ずお相伴から仲人に対して「祝儀の座敷は仲人まかせという言葉があるからよろしくたのむ」と挨拶する。これに対(こた)えて仲人は「祝儀の席は、お相伴まかせといわれているからよろしくたのむ」といって挨拶を返えす。このままでは結着がつかないから、そこでどちらからかの発言で「それでは、両者相持ちで……」ということになる。両者が協力合議の上で式を進めようということになって落ちつくのである。この両者の呼吸がピッタリ合うと、儀式は円滑に進行するのである。「お日特」の場合は独自の催しであるから、そのグループの方式その儘でやっても支障は起らないが、婚礼の場合は相手(あいて)があるので、自分のグールブの方式をその儘先方に押しつけることは出来ない。といって、自分の方式をみな放棄することは近所隣の前に許されないわけである。婚礼は組人の協力の下に挙行されると共に、組人にその承認を求める手続であるからである。それで右【上】のように仲人とお相伴とのやりとりが登場するということになるのである。
 葬式の時は特に組の人々の協力が大きい。遺族は悲しみに打ちひしがれ、心身は疲れ果てて葬儀を営む力を失っている筈だからである。葬式は殆んど組の人々によって行なわれるといってよい。その例を上げよう。
▽大蔵 不幸が起ると先ず組合に話をする。組合というのはウチウチの関係で、今の隣組とはちがったものである。そのウチウチの関係は必ずしも一ヶ所に固って住んでいるとは限らない。屋敷替などで離れているものもある。この組合が集りこれが中心となって葬式の準備をはじめる。翌日には近所の人が手伝いに来る。部落内は、「上」「下」「堀の内」の三組になっており、これが各々二つに分れているので、この三つの組の半分の人達(組合以外の)が立合って、寺使いをしたり買物をしたり、穴を掘ったりする。(新藤武治氏談)
▽吉田 不幸が起ると、先ず近所に通知して集って貰う。一家(イッケ)の人々も集合しここで施主を加えて葬式の相談をする。各人の役割や、供養の仕方を決めるわけである。
「告げの人」これは必ず二人宛一組、役場、買物、家まわりの諸雑用「穴掘り」等の分担がきまる。葬式の立役者、つまり一番重要視される役は「穴掘り」である。葬式の行事はすべて「穴掘り」の意見をきいて進める。予定の時刻に間に合うかどうか、絶えず穴掘りの仕事都合に伺いをたてる。穴掘りが円滑に進むよう、特別の慰労をする。仕事中は焚火をしたり、酒や菓子をはこんだりしてねぎろう。親戚や施主から寸志として金一封を贈る例になっている。供養の席は、古い親戚が正座に近く、新しい親戚がその下、近隣の人達は一番末席に坐わる。会葬者が多く、座敷をかえる場合は近所の人達は最後の座敷に列する。これは近所の人は施主側であって葬儀の執行者であり会葬のお客ではないことを意味している。(小林文吉氏談)
▽古里
昔は六軒一組であったが、今は二十軒になっている。分家しても本家の組に所属する。この組合が集合して葬式の準備をする。親戚は百匁位の「あんびん餅」を「二はんだい」宛供えるのが例であった。これは葬式がすむと近所の子供たちに与えた。一人当り二つから四つ、多い家では八つもくれたことがある。仏の供養と組合の人に対する親戚からのお礼の意味を含んだものである。(荻山忠治氏談) ▽川島
不幸の家から組合に知らせて、葬式の相談をする。施主は相談に参加するだけで仕事の方はしない。組合の主(おも)だったものが「人に立つ」。その外寺や役場に使いに行く人や、買物に出かける人や、「穴掘り」の人がきめられる。十五軒の組合を「上」「下」の二つに分け、不幸の家の属しない方で穴を掘る。「穴掘り」には豆腐と酒を提供して労をねぎろう。葬式の供養には本膳を出して、「穴掘り」役が正座にすわる。この席は両隣の人が司会する。葬式当日は組合の女達も出てお勝手元の仕事をする。施主は「穴掘り」や「お勝手元」の女達に金一封を贈るのが例である。お葬式のあとで組員一同で念仏を唱えて解散する。一七忌、四七忌、初彼岸、初盆、一週忌には組合一同が若干の香料をもって墓参に行く。(森田与資氏談) ▽太郎丸
他の細と殆んど同じであるが違う点は、葬式を二日に渡ってやったことである。二日目は念仏をあげるのが中心行事であった。この時「あんびん餅」を、一人について一つから五つ位配った。葬式は村中で立合った。米搗きは八人がかりでやるのが例であった。(中村保蔵氏談) ▽鎌形
不幸が起ると近所に知らせて、それぞれ役割をきめて動き出す。昔は二日に渡って葬いの行事があり、はじめの葬式の日は本膳で供養し、翌日は「忌中払い」の膳を出した。今では簡素化してこれを一緒にやるようになった。組は、昔の五人組と、新しいお日特組の二重の関係があったので、昔は五人組のものと一族が集って相談し葬式を行なったが、今は新らしいお日特組で行なっている。(簾藤惣次郎氏談)  このように一家の不幸は組合全体の問題であり、葬式は組合全体の仕事であったのである。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
このページの先頭へ ▲