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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

三、村の生活(その二)

第8節:村の共同生活

お日待

 郷以下のグループは「お日待組」ともいっているように、そのグループの存在は「お日待」の執行で表明された。「お日待」というのは、「ひまち」「つきまち」といって各種の講仲間が、一所に集い心身をきよめ、邪念を去って、一夜をあかし日の出や、月の出を待つ神事である。こうして講人に共同の幸福をさづかろうというのであるが、この時には一同飲食を共にし、娯楽博奕などに興じて語りあかしたのである。私たちの間ではこの共同飲食の面をとらえて、神仰に関係のない宴会でも、これを「お日待」というようになった。旅行して帰れば「下山日待」をやって解散する。魚とりをして「お日待」をする。おしめり祝いに「お日待ち」を催すなどという。今の「お日待」は宴会・懇親会の意味である。「お日待」の意味はこのように変っているが、部落ではこの「お日待」に参加する人だけがそのグループの成員であり、その「お日待」の存続が、そのグループの存在を示す根拠と考えられている。それで一つの「お日待」は、これを他の「お日待」と区別するために、共同の飲食とはいっても、それぞれ昔からのしきたりに応じて、特色のあるものをもっていた。一つのグループが、他のグループとは同じでない、隷属しない、独立のもの個性的のものであることを明らかにしようという意図が自らはたらいた結果であろう。その一つの例に、高倉の一升牡丹餅がある。高倉の一升牡丹餅については、昭和三十一年(1956)三月の「菅谷村報道」にその探訪記がある。筆者の手記である。これを紹介する。

 三月十五日、一升牡丹餅で噂の高い高倉のお日待に招ばれた。午前十一時お日待宿の田畑里治さんのお宅につく。
 春分の日も近い。縁側一ぱいの暖かい日向で数人の組員がのどかに寝ころんでいる。ひばりが前田の空でさえずっている。請じられるままに座につくと、田畑周一氏が「あまり遅いのでもうすんでしまいましたよ」という。
 聞けば今日は組員一同が早朝から集って、牡丹餅を作り九時半頃から会食をはじめたのだという。朝食兼昼食である。残念乍ら会食の状況は見られなかったわけである。
 やがて村長さんと私の前に運ばれたお膳を見て「成程!」「成程!」、期せずして驚嘆の声を放つ。
 「食べ切るまでは帰れないことになっています」と里次さんが真面目でおどかすので、ギクリ。「これは大したことになったぞ」と、改めて逸品を見直す。大きい。うまそうだ。思わず唾をのみ込む。会席膳(かいせきぜん)の中央に方六寸のお盆を載せた一升丹餅がうづ高く、餅はお盆に載り切れないで四周にはみ出している。いや大きい。実に大きい膳には汁や胡麻和(ごまあえ)など副えてある。
 村長さんにならって箸をとる。うまい。甘い。米が七合に小豆が三合、これで一升牡丹餅という。
 釜が起点で、あんこが終点、組員が相対して二列に並らぶ。釜から一つの器に盛った一つの牡丹餅を、並んだ組員が次から次へとリレー式に手渡して丸める。最後はあんこのつけ手。小学生のボール送り競争を思い出し乍ら、小久保宗平氏、大塚重作氏などの説明をきく。
 「全部たべ切るのに大体二時間位はかかりますね。はじめはあぐらで食っていますが、だんだんかしこまってくるんです。腹を抑えないからその方が楽ですよ。うまいと感じて食べては駄目です。あんこにあてられて頭の芯が痛くなってきます。食べ切る頃には寒気がして来ますナ。誰でもそうらしい。それでみんな今日も縁側で日向ぼっこをしているんです。暫くは物によりかかったまま動けないこともありますね。そんな時に笑わせられでもしたら堪りません。苦しくて……」
 だが然し、不思議にも不思議、起原の分らない程古いこの一升牡丹餅の行事で、未だ曾って腹をこわした人は一人もいない。おまけにこのお日待には喧嘩がない。「腹がくちくなると自然に気持ものんびるするからね」と田畑氏が笑う。これは今日集った人達が子供の頃にすでに催されていた行事で、いつどうして始ったか、その縁起は定かではないという。組員十七人のうちゴールに達したものが二人。昨年よりも成績不良だという。余った分は学校から帰った子供たちのこよない楽しみとなる。完遂した人には、この上にまだお重ねといって稍々小さいものが用意されている。親達の親睦の行事に集って、あまりの牡丹餅を頬ばり乍ら、幼い子供たちの胸には、神に祈り、大地自然に感謝して共々に稼業にはげむ共同相助の精神がたくましく成長する。こうしてみな今の大人になったのだ。さて隣では村長さんがすでにかしこまつた。私もバンドをゆるめて座り直し、グッと腹をのばしたが、もういけない。遂に箸を投じた。牡丹餅はまだ半分に達しない…。

 これは特異性の顕著な「お日待」の例である。その外各地区のお日待をきいてみると次のようになっている。

▽遠山
 男遊びは二日間で宿は順廻り。その前日に両隣から手伝いが出て半日宛準備をした。当日は米一升宛持って集り昼食はかてめし、夜は米をひいて餅をつくつた。翌日は普通のめしを食べた。二日間は家に帰ることが出来なかった。勝手に帰るとその日の費用を弁償することになっていた。(遠山にはこの外に黄粉かっくるみといって、半切り一杯、黄粉と黒砂糖と小麦粉の団子をかっくるんで食べるお日待があった。)(高橋)

▽勝田
 男遊びが三月一日、二日、女遊びが三月十五日に行なわれた。男遊びは酒を沢山のむので評判が高かった。四斗樽で酒を買い、上と下の二組に分けた。飲み切って足りないこともあった。一週間位前から準備にかかり用掛りが甘酒をかきこんだり、熊谷へ買物に行ったりした。十七才になると若衆仲間に入り、お日待に出席する。酒を買って本家や隣家から披露して貰った。お日待では榛名講、大山講の代参をきめ、用掛りの交替をした。女遊びは砂糖団子をつくり、主婦たちが一日話し合った。(田中)

▽太郎丸
 男遊びは二月十五日。二日間遊んだ。余興には夜ふかしで丁半をした。はじめて出席するものは酒を一升買った。夜、家に帰る者も一升買うきまりになっていた。然し実際に帰ってしまう人はなかった。女遊びは二月十六日で、余興には「ぽっぴき」という賭勝負が行なわれた。(中村)
 尚「ぽっぴき」について、田中勝三氏は次のように語っている。
「麻紐長さ四〇糎位のものを一座の人数だけ用意し、その中の一本に、天保銭とかハカリ玉などを結びつけておく。十人一組が車座になって、一銭位宛賭ける。ドーヤが紐をよくそろえ、つけ玉のわからないようによくにぎり、ホツとかけ声して畳の上に紐を投げつけ先端を散らして出す。各人がこの先をつかむと、ドーヤは手を放し、玉のついた紐をつかんだ人が、賭金の全部をとる。ドーヤは順番にするか、賭金をとった者がつとめるか、はじめにきめておく。大正の初頃まで婦人の間にひろく行なわれていたらしい。宝引きとも書く。」

▽鎌形
 春の男遊びは二日間であった。その外、天王日待、大山の燈籠たて、二百十日、農上り、こくが原講、おしめり祝など、お日待の数は多かった。女の方は春の女遊びと観音講のお日待と二回であった。(簾藤)

▽平沢
 男遊びや女遊びの外に子供の天神講、午頭尊の観音講などがあって、お日待の回数が多かった。お日待組は本家分家のつながりでできていた。冠婚葬祭もこのグループで行なわれた。今は地域単位になった。お日待組から役員を出し、その役員が集って村の役職を選出した。長男は十五才になるとお日待で披露した。酒一升持参して、本家や隣家から紹介して貰った。婿は三つの組合に一升宛出して村披露をした。はじめは、挽き餅のあんこ入れを作ったが後には、ねり餅になった。用番がその仕事をした。(奥平)

▽志賀
 榛名講は三月十四十五の二日、女は三月十六日であった。男は普通のめし、女は餅をついて食べた。十七才で仲間入りをした。婿は六つの組を廻って披露の挨拶をした。(高橋)

 このようにそれぞれの「お日待」に独特の型があったということは、外に対しては、そのグループの存在を明示し、内に向っては、仲間(なかま)の意識を強めて、団体の結びつきを固めるのに役立った。「俺らが方じやこうだがね。」という自負や誇りが、どのグループにも存在した。自分たちの「お日待」が最良のものであるとして、他を羨やまなかった。「お日待組」はこのような強い独自性をもっていた。従って外に対しては閉鎖的であったが、内部の共同意識は極めて強固だったのである。広野では畑の野菜がしばしば盗難にあった。犯人は内部にある。そこでお日待の時藁人形をその畑にたて、竹槍でこの藁人形を処刑した。以後盗難は跡を絶った。(永島氏談)これも自分たちの問題は自分たちで処理しようという共同意識のあらわれである。えい仕事や冠婚葬祭の協力はこの共同意識の上に行なわれたのである。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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