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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

三、村の生活(その二)

第7節:家号

家号の起り

 先ず直接に人名をいわずに家号でいいはじめたという理由は、日本には古来から、人を呼ぶ時、直接その名を称えることを避ける風習がある。直接名を呼ぶことは失礼に当るという考えが通念になっている。町長さん、組合長さん、局長さん、などと時には、舌を噛みさうな職名まで不便を忍んでいっている。教育長さんなどは、早口言葉の例題になりさうな呼び名である。
 人の名は、人間の肉体につけたものではなく、その肉体に宿るタマ=霊魂(れいこん)についたものである。名を呼ばれるということはその魂を呼ばれることである。名は生命につけたものである。人の人たる所以はその名に存するのである。だからズバリその名を呼ぶことは、直接その人の本質にせまることである。生命にじかにふれてこれをおびやかすことである。だからお互にこのような危険なことは、さけようという身構えが出来上った。女性の場合はとくに名前を大切にして、親以外は、夫となるものでなければその名を明らかにしなかった。男にその本名を自由に呼ばれることは、彼の女のタマ(魂)が、その男の自由に任せられると信じたからである。宗門帳を見ても女の名は不明だったり、いくつにも変ったりしていた。実の名が確定していなかった証拠である。男の場合も親の名を襲名(しゆうめい)するという例をいくつか見た。親の名をつぐということは、漫然(まんぜん)とした単なる慣習ではなく、名主重兵衛の伜、伝平が、親の名をついて重兵衛になれば、そのタマ(魂)は立派に成長して、重兵衛たるにふさわしい人格力量をそなえたことを意味し、又、換言すれば、名主重兵衛のタマ(魂)を一切余さず、自分のものにとり入れて、名主たるに相応(ふさわ)しい能力を具備するにいたったという思想がその根底に存在した。名前はそのように微妙にして貴いものである。これをお互に呼び合わないということは、永い間の生活の知恵とでもいってよいであろう。とくに身分の高い人には、礼を失すること甚しいと考えて恐懼(きようく)してこれを避けた。御堂(みどう)様、御所(ごしよ)様、御屋敷(おやしき)様などこの例は枚挙(まいきよ)にいとまがない。
 名前は大切なものであるから、その大切なものに直接に露骨に触れ合うのは滴互に避けようという態度が、間接の呼び名の生れて来た起原だと考えることにしよう。その間接の呼び名が家号である。
 さて家号は間接の呼び名としておこったのだとすれば個々の具体的な家号はどのようにして定ったのか、小峯組の例からこれを考えて見ると、明治末年の小峯組は十二戸から成っていた。そして個々に家号があった。図示のとおりである。

屋号の図1

 この家号を区別すると、
一、その屋敷の所在位置を呼ぶもの、これには(A)その区域全体から見た位置で呼ぶものと、(B)ある家を基準にしてその関係位置で呼ぶものと二つある。
 A 西の家、東の家、大東の家
 B 上手(うわで)、下手(したで)、前の家、後の家がこの例である。
二、家の出自、本家分家の関係を呼び名とするもの。
 表、新家、当住、隠居
三、職業、商売が家号の起りとなったもの。
 店(みせ)、店の家、綿屋、紺屋、とぎ屋、この呼び名は比較的新らしい。その以前には一、二に当るような呼び名があったのかもしれないが、商売の方が世間に顕著(けんちょ)になり、普遍(ふへん)性が多かったので、この名に変ったのかもしれない。
 以上の三つに区別することが出来る。民俗学では広い範囲から蒐集(しゅうしゅう)した資料によって、「屋号」を次のように分類している。この分類はその呼び名の起源を示すものであるから参考のためにあげると、
一、位置、方面によるもの(おく、はなれ、むかい、きた)
二、地形によるもの(たいら、さわぐち)
三、家屋の構造、材料によるもの(いたや、くらや)
四、家印によるも(ひしや、かぎや、ささや)
五、家の祭神によるも(だいみょうじ、おうじ)
六、家の格式本家分家関係によるもの(いちやしき、おやけ、あらや、しんや)
七、職業や、村内行事の任務によるもの(かじや、こうや、たいふ)
八、出身地によるもの(いづや、ひだや)
 個々の具体的な家号は大体右【上】のような起原によって、はじまったものと考えてよいだろう。然し私たちは、家号の内容には、この起原だけでは、包み切れない特殊のニュアンスが蔵されていると感じる。語を代えていえば、互に家号を呼び合う人々は、その家を区別し、さし示すということの外、その家の成りたちや、移りかわりや、その時々の家運の状態などを胸に描いているのである。つまり家号にはその家の歴史が結びついていると考えられるのである。小峯組についてこれをみよう。

屋号の図2

 はじめの形は実線のような家の配置であったと思う。さてこの部落の勢力関係を見ると大きく二つに分けられる。「表」は本家の意味で「新家」は勿論、「西」「たな」はその一マキで小峯姓をなのっている。大東は廃家を嗣いで山口となったもので、実は「西」の小峰の分派である。地名の小峯を姓としているから「表」はこの部落の旧家であったと考えられる。小峯系統は五戸ある。これに対して「東」の小林がある。「うしろ」の小林との縁故関係は伝わらないが「隠居」と「紺屋」と「店」とが、小林の分家であることは記憶に新らしい。小林系統も五戸である。この間に長島が介在している。これはしばらくおく。ところで、「表」であるが、この家は部落の前側つまり表側にある。後世の人は表側にあるから「表」というのだと思っているらしいが、起原はそうではない。「表」は「本家」の意味だったのである。後(うしろ)の小林家から見て前の家という名が起らなかったのは、「表」は即ち「本家」の意味が優勢だったからである。表は一マキの総帥の意をあらわしていた。これに対して「東の家」がある。小林家は、小峯家より後の住人と思われる。先祖が法印号をもっているから、修験者がここに定着したとも考えられる。小林姓はここに定住してから名乗ったものかもしれぬ。とも角小峰姓に対する一つの勢力に成長した。そこで東と西の対抗が生れる。小林家は、はじめ部落の東のはずれにあった。それで「東の家」と呼んだ。そして「東の家」の呼び名には東方の一勢力というニュアンスがあった。単に方角を示しただけではない。これに対して、「西の家」が生れた。「表」は本家で別格である。その一派の有力家が、西の家と呼ばれた東の家に対応した。東に対する西、上に対する下というような相対的な呼び名が起る場合、両者を比べる意識が自らはたらく筈である。比較にならないものは二つならべてみても意味がないからである。両家の勢力関係が東と西の呼び名を決定した。これが「東」「西」のおこりである。西の分家に「山口」が出来て、これを大東と呼んだ。単に位置だけを示す「東の家」なら、その名は山口家に譲ってもいい筈である。その方が合理的であるにもかかわらず、新しい東は「大東」と称し、「西」は亡び去り、屋敷は部落の中央に近くなったにも拘らず、「小林家」は相変らず「東の家」の呼称をすてなかった。それは何故かといえば「東の家」には、以上のような成立の事情が、その家の歴史となって結びついているからである。だから「東の家」には、この歴史に基く独特の観念が伴った。この独特の観念を他の家におきかえることは、自体不可能なことだからである。このようなことは他の家号についてみな言えるのである。各々の家号には、各々独特の観念が伴っていたのである。各々の家号には各々の歴史が結びついていたのである。家号はその家に個有のものであった。この考え方に立って、前掲の広野の家号を検討してみよう。地元の説明を手がかりにして家号に伴うニュアンスを探って見ることにする。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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