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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

三、村の生活(その二)

第7節:家号

明治末年の家号

 私たちはここに広野村島田領の「宗門改帳」によって、元禄十五年(一七〇二)から享保二十年(一七三五)にいたる三十三年間の家々の移りかわりを見た。家庭を構成する家族たちの人数や、年令や、性別や、健康状態などから、十六軒の家々の家運の隆替(りゅうたい)を想定した。然しこれは「宗門改帳」にあらわれていることだけを拠りどころとして、頭の中で家の変転の筋道を考えたものにすぎないから、実際にはこの想定どおりでなかったのは言うまでもないことである。とくにこの想定では、家々のよってもって存する社会というものが無視されている。十六軒のどの家も、一家(け)一族という血族関係のかたまりや、隣、近所というごく狭い範囲の地縁関係の集りや、生産や信仰や行政など、生活の全面に亘って共同体制をとる村落集団の中に組み入れられて、はじめて具体的に一軒の家として存在していたのである。種々の集団組織の、つまりそれらの社会の構成要素として、現実の家々が存在したのである。だから家運の隆替といっても、この社会との関連の上で見なければ本当のことは分らない筈である。そこでその社会集団の中、隣組とかお日待組とかいわれる狭い地域の、血縁乃至地縁集団のなりたちや、はたらきをみてこれが一軒の家の隆替にどう関係していたかを考えてみよう。
 この仕事の手がかりとして、私たちは、ここに、家号、家の呼び名をとりあげてみた。町誌編纂委員によって、各字の家の配置と家号(やごう)が調査された。明治末年を基準としたものである。その中、大字広野では次のようになっている。括弧内は地元の説明である。

▽大字広野
一、とんがいと (飛ヶ谷戸、遠ヶ谷戸の意味か?)
二、石倉    (不明、但し小字名)
四、うえの家  (高い所にあり、したの家―九番―の本家にあたる、相互に上のうち、下のうちと呼びあっている)
五、しんたく  (明治時代の分家)
六、おきの家  (谷の奥にあるため)
九、したの家  (四番の分家)
一〇、もとやしき(古い屋敷跡に分家したため)
一一、むかいの家(部落の向いにあるから)
一四、したの家
一五、たなの家 (明治末期に店をしたため)
一六、うえの家
一七、谷の家
一八、同前
二〇、おとうざか(付近に宇塔坂、虚坂がある)
二一、同前
二二、東    (本家の東)
二三、武の内  (代々名主、二二番、二四番の本家)
二四、西    (本家の西)
二五、しんたく (二三番の新宅)
二七、うちで
二八、かじや
三一、前の家  (古い堂があり、その前の意)
三二、宮下
三三、泉学院
三八、中山
三九、東のうち (宮ヶ谷戸の東)
四〇、宮ヶ谷戸
四一、いんきよ (宮ヶ谷戸のいんきよ)
四三、清水屋  (昔商店であった時の屋号)
四六、かじや  (昔鍛冶屋をした)
四八、台のうち (高台にあったから)
四九、うしろ  (表のうちのうしろに屋敷があったから)
五〇、表のうち
五一、したのうち(堂の下のうちの意)
五二、堂下   (同前)
五三、前のうち (表のうちの前)
五四、畑中(はたけなか、屋敷の周囲がすべて畑地であった)
五五、橋場   (下郷橋のそばにあった)
五六、東    (本家の大下の東)
五七、大下   (部落の最も下手にあった)
五九、こうや  (紺屋をしたという伝えがある)
六〇、中や   (小間物を売ったときの屋号)
六一、上の山
〔註〕明治末年以後新設の家と、家号のない家(不明になっている家)は省いた。

 昔から村の家々には必ず個有の呼び名があり、今もそのまま続いているものが多い。今仮にこれを家号と名づけよう。村の人々は、その家の、何の何兵衛といわずに、家号でその人を指すのが慣例であった。どうしてそのような慣例が始り、長くその家号が続いて来たのだろうか。これが分れば家と家の結びつき、家の属する集団と家との関係などが分ってくるのではないかと思うのである。
 尚、「家号」の文字を、民俗学者は「屋号」と書いている。屋敷を含めた住居につけた呼称だから「屋号」と書くのが正しいというのであろう。たしかに「家号」と書くと、意味が狭くなり、抽象的になって、地形や家の構造などにつけた呼称を含み得なくなると思う。しかしこの村では、家の呼び名には、語尾に必ず「チ」がつけられる。「ひがしん」「うえん」の類である。これは東の家(うち)、上の家(うち)の訛ったものである。「んち」は「のうち」の意味である。それで「屋号」と書くよりも「家号」と書いた方が、村の人々の気持によく合っていると思うのでこれを用うることにする。
 さて家号がどうして始り、なぜ続いて来たのかを考えるわけだが、もう二三の実例をあげて、家号の実態に近接してみよう。

▽大字太郎丸
一、後重谷(後の谷にある)
二、同  (同)
三、裏の家(前列より実にある)
五、大東の家(部落で一番東にある)
六、こっち東の家(大東の西にあるので)
七、新田の家(他村より転入した)
八、前の家 (部落の前の側にある)
九、堂場の家(昔その付近に堂があった)
一〇、とうじゅうの家(隠居を出した)
一一、屋敷の家(部落で古い家)
一二、新家  (分家、但し時代は古く不明)
一三、新家  (同)
一四、そうめん屋(先代がめんやをした)
一五、したでんち
一六、油屋の家 (油屋をした)
一七、紺屋家  (紺屋をしたことがある)
一八、酒屋家  (酒屋をしたことがある)
一九、屋根やの家(屋根職をした)
二一、医者様の家(先祖が医者であった)
二二、西の家  (部落の西にある)
二三、本家の家 (分家を多く出したので本家という)

▽大字勝田
一、下広地(小字名)
二、同  (同)
三、鹿島 (旧鹿島神社の地続き)
四、草薬師(薬師堂の地続き)
五、同  (同)
七、堂  (旧地蔵堂の後)
八、豆腐屋(先祖の職業)
九、新井 (小字名)
一三、新宅
一四、バンバ
一六、新家  (本家に対していう)
一七、北
一八、川端  (川の端にある)
一九、雨ヶ谷戸(小字名)
二〇、同   (同)
二一、西   (本家の西側)
二三、表   (本家)
二四、店
二七、左官屋 (廃家)
二九、建具屋
三〇、堰場  (旧水引堰の跡)
三二、天神山 (天神宮の地続き)
三三、同   (同)
三四、金塚
三五、沖
三六、下
三七、新家
三八、前
三九、上の家
四〇、台
四一、新田
四二、カジヤ(祖先の職業)
四三、中
四四、大下 (部落の一番下手)
四五、新宅
四六、表  (本家)

勝田村家の配置図と家号 明治末年
勝田村家の配置図と家号 明治末年

 以上の三つの例によって昔流の家号はどこの家にも必ずついていたことが分る。然し今はない家もある。それは時勢の変転と共に忘れられたり、新しい特徴的な呼び名にとって代られたり、小グルーブの呼び名であったため、多くの人に知られずにしまったりしたのである。
 今家号を持たぬ家も、少くとも明治末年頃は必ず家号があったと考えてよい。これは村全体として見ないで、ごく小範囲の隣組程度の区域について見れば明らかなことで、今でも昔の呼び名で呼び合っている場合が多い。最近は佐藤君、田中さんなどと、しかつめらしく呼び合う風習も多くなったので、これも次第にうすれている。筆者の住む鎌形の小峰部落は昔十二軒のグループであるが、各々家号をもっている。然しこの中で近隣一般の家名として通用しているのは、つまり村中で知っているのは「研ぎ家」だけである。その他の家号は他には通用しない。それでこれを知らない人達はその家に家号がなかったものと思っている。これは事実とちがっているのである。
 さて家号のおこりは何であろうか、先ず、本名を指さずに別に呼び名が出来たわけから考えてみる。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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