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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

二、村の生活(その一)

第6節:年貢率

畑の取高

 田の年貢高を永で現わした例は他の村では見当らない。然し畑や山はすべて永で現わしている。ところで前掲の杉山村宝暦八年(1758)の年貢割付状によると、新田畑成壱反四畝廿四歩、此取米壱斗八合六勺とあって、そのそばに「右者年々反取半減ニ而上納」と註記がある。つまり畑になったので年貢は田の半額だということである。すると一般に畑の年貢は田の半分程度にきめられていたのだろうか。
 この割付状では新田の取米は

一一畝 三歩  一斗三三二(反当1石200)
 三畝二六歩  〇斗六〇七(反当1石563)
 一畝一三歩  〇斗一一七(反当0石836)

と三通り書きあげてある。反当を計算すると右【上】の括弧内のようになる。この畑になった新田の年貢は反当にして七升三四であるから田であった時は、一斗四七〇となって、他の新田の年貢額と一致する。半減というのは、新田の年貢額の半分という意味である。それなら本田の場合はどうか。割付状には「本田畑成壱町九畝七歩、此取永六百三拾四文反五拾八文」とある。そこで、永一貫、二石五〇〇として計算すると反当一斗四五〇となる。本畑は反当四四五文であるから石数にして一斗一一二となる。さて、前に見たように本田の取米は上田と思われるものが三斗〇八〇、次が二斗七〇〇、次いで二斗三二六となっているから、大体畑の年貢高は、田の半分と見てよいことになる。
 「沿革」によって旧幕時代の畑の年貢高を調べると次のようになっている。尚畑面積と戸数を掲げた。

          畑面積  戸数
菅谷  17貫289文 35町00  46
志賀  34貫176文 46町10  95
平沢  17貫143文 20町80  46
遠山   9貫947文 12町50  23
千手堂 15貫639文 25町55  37
鎌形  54貫253文 98町50  141
大蔵  31貫852文 33町70  57
根岸   4貫572文 10町10  17
将軍沢 11貫409文  9町50  29

これを反当と一戸当りに計算すると

     反当 一戸当 反当年貢高 一戸年当貢高
菅谷   50文  380文  1斗250    9斗50
志賀   74文  360文  1斗850    9斗00
平沢   82文  370文  2斗050    9斗25
遠山   80文  430文  2斗000    10斗75
千手堂  61文  420文  1斗525    10斗50
鎌形   55文  400文  1斗375    10斗00
大蔵   95文  560文  2斗375    14斗00
根岸   45文  270文  1斗125    6斗75
将軍沢  120文  570文  3斗000    14斗25

となる。関東では「夏成り」といって、夏期に畑方の年貢をとった。これは元来米で納むべきものを金銀銭で納めさせ、米二石五斗について永一貫文の割であった。そこで右【上】の永高を米に換算すると表のようになる。最高が将軍沢の一二〇文 三斗〇〇〇、最低が根岸 四五文 一斗一二五があるが、大体は、一斗五〇〇〜二斗〇〇〇と見てよい。終戦後畑の小作料は反当六〇〇円の相場であった。米一升消費者価格一二〇円として五升である。人々はこれを極めて安い小作料と感じた。今、畑年貢、一斗五〇―二斗〇〇はその三―四倍に当るから安いとは言えないが、極めて安いという感じかたをもとにした三、四倍という数字はそれ程高いという感じ方には転じない。私たちは畑年貢は比較的に低率であったと考えるのである。そしてここに百姓の生活の謎が蔵されていると思うのである。尚戦前の畑の小作料は反当麦二俵、豆一俵位であった。
 畑の生産高を調査してみよう。次の表は、明治初年、菅谷地区各村々の畑作収穫高を主な作物について書上げたものである。これも「沿革」の記載である。

第十三表|スキャン画像
第十三表 畑作収穫高

 夫々総生産高、反当生産高、一戸当生産高を示したものである。この中第二表をみよう。鎌形を例にとると、一反歩の畑から穀類だけで、大麦五斗二升、小麦、四斗七升、大豆一斗九升、粟三升五合、そば二升六合であり、通算すると一石二斗四一となる。
 この外に甘藷、実綿、桑などがあり、表には現われていないが、小豆や芋、菜、大根、人参、ごぼう等の野菜があったことは想像に難くない。
 畑の年貢も米でおさめるのが原則であり、これは後に「石代納」といって貨幣で納めさせた。米の場合は反当一斗五升―二斗位が相場であった。これは田の年貢の半分程度である。畑には年貢の余りが可成り残されていたとみてよいだろう。前記の数字の通りである。それで百姓の生活は、畑作によって支えられていたという見方が出てくるのである。畑の利用率は高かった。だから千手堂村では、田と畑の質入値段が殆んど同額で大差なかったのである。(結び参照)

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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