ページの先頭

第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

二、村の生活(その一)

第6節:年貢率

石高と永高

 天保二年(1831)卯二月改「田畑御年貢永高帳」は吉田村の名主富次郎の記録によるもので、村内百姓の年貢高を「永」で現わしたものである。これを見ると

              太右衛門
畑永 五百五拾文八分
田永 四百五文二分
 〆 九百五十六文
              甚左衛門
畑永 六百八拾八文五分
田永 弐百七拾五文三分四厘
田永 百八拾弐文  古里村喜三郎
田永 百拾文    同 村丈右衛門
   〆 壱貫弐百五拾五文八分四リン

というように「永高」を個人別に書き、最後も総計四拾貫五百九文弐分六リン、この中から役地を五貫四百弐拾八文を差引いて、三拾九貫八拾壱文弐分六リンと締めてある。これは杉山村の惣高帳に相当するもので百姓の年貢負担額を「永高」で表したものである。
 この「永高」というのは、足利時代から永楽銭が通用するようになり、田畑の年貢はこの永楽銭で納付した。「永高」とは永楽銭の高ということである。ことに関東地方では、永楽銭の通用がさかんであったから年貢は専ら永楽銭で納付させていたので、その土地の年貢負担額である「永高」はその名と実が一致していたわけである。ところが豊臣氏以降は土地の年貢負担額を「石高」で現わすようになったので、年貢は永楽銭ではなく現物の籾で納め、又米で納めるようになった。だから名前は「永高」といっても、実際は籾納、または米納となった。慶長年間(1596-1615)に伊奈備前守が検地した時この「永高」で現わされた土地に対しては、永一貫文に籾五石ときめ、その後籾納が米納になると、「永高」一貫について米二石五斗を徴収した。籾を米にすれば五合磨りと見たのである。然しその後米価が騰貴(とうき)してくるとこれでは高率になるのでその半分の一石二斗五升に減じた。県治要略にはこのことを説明して「永楽銭の通用盛に公私に行なわれるに及びて、田畑反別に配合するに、畑方銭納は永楽銭の税額をそのままに、田方籾納は五石を永楽銭壱貫文に換算し、更に永高と唱え、即ち一村その他の高に用ゆるに至れり」といっている。畑は永楽銭そのもので、田は永楽銭壱貫文を籾五石当りで納めさせたのである。
 ところで、吉田村では、この永高帳に基いて、同じ天保二年(1831)十一月に年貢の割付を行なった。これが天保二年十一月吉祥日「卯年田方御年貢割付帳」である。名主富次郎と宇八両人の記録である。
 これによると

米 弐石弐升六合壱勺  太右衛門 印
   内
  三升六合        餅米
 差引米壱石九斗九升壱勺
  此代金 弐両壱分弐朱 銭三百四拾六文
   内
   金三分     十月廿七日
   金三分     十一月十日
   金三分弐朱
   銭三百十六文  十二月十日
    皆済

米 弐石七斗九升七合五勺  甚左衛門 印
   内
  弐升五合    餅米
 差引米弐石七斗七升弐合五勺
  此代金 三両壱分弐朱  銭四拾文
   内
 金 壱両弐分    十 月廿七日
 金 弐  分    十一月十日
 金 壱  両    十一月廿一日
 金 壱分弐朱
   銭 四拾文   十二月十日
    皆済

 以下百姓全体について、米の割付高と納付金額と納付期日が詳細に記入されている。
 この永高帳と割付帳から太右衛門の田永四〇五文二は米二石二六一、甚左衛門の田永五六七文三四は米二石七九七五に当ることを知る。これは永一貫当り五石であることが分る。

 2石261÷0.405貫=5石  2石7975÷0.567貫=4.9石強

 天保二年(1831)の米相場は一石当り銀七七匁三分という記録がある。同じ頃金一両は銀六三匁一分二厘となっているから、米一石は金では大体一両余りと見てよい。太右衛門と甚左衛門の納税額は、一石九九が二両一分二朱であり、二石七七が三両一分二朱であるから大体一石一両の米相場に一致する。して見るとこれは籾ではなく玄米である。永一貫当り籾なら五石、玄米なら二石五斗納付せしめたという説とは甚しく異って、貫当りの負担が重い。何故だろう。名主富次郎は名主伊兵衛の息子である。天保二年より十八年さかのぼった文化十年(1813)の、伊兵衛の「持高覚帳」がある。これによると、伊兵衛は、上田一四畝二六、中田二六畝〇一、下田四〇畝二七、下々田一畝〇五、計八二畝二九。中畑四畝二九、下畑四畝二八、下々畑七畝一六、屋敷一畝二〇、計一〇二畝〇三を持っている。約二十年の間に若干この持地に移動のあったことも考えなければならないが、天保二年もこのままであったと仮定して、(天保の持地の記録がないので)「永高帳」を見ると富次郎分は

 細永  三百弐文九分
 田永  壱貫七拾文
 田永  百弐文七分  忠兵衛分
〆 壱貫四百七拾五文六分

となっている。これに対して「割付帳」では、米五石八斗五升七合三勺が割付けてある。(この計算には誤りがある。これは割付帳にも註記してある)一貫当り五石とすれば五石八六三五となり、この内、富次郎の本高だけ計算すれば一貫〇七〇文は五石三五〇となる。この五石三五〇負担の田が面積にして八二畝二九に当っている。従って反当六斗四四五で、これが反当の取米となるわけである。
 古里の荻山忠治氏所蔵の年貢割付状を見ると、元禄元年(1688)から元禄九年(1676)までの、反当年貢取米が記載してあるが、一定して上田六斗二、中田五斗五、下田四斗七となっている。従って平均五斗五升弱である。富次郎の六斗四四五は、約一斗多い。過重である。然しこれは二十年後の土地の異動を無視しているので、天保二年には土地が増加していたと考えることも出来るから、あるいは、古里村程度の年貢率であったかも知れない。まあそれはとも角永一貫が米五石を指しているということは、大体反当五・六斗というところでこの地方一般の年貢率に通ずるものであったと見られる。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
このページの先頭へ ▲