ページの先頭

第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

一、村の成立

第1節:村高

各村の村高

 然しその前に嵐山町の村々はそもそもどの位の「村高」であったかこれを紹介しておくことにしよう。
 さて「高」とは何か、石高のことである。年貢を徴収するために定めた田畑の担税(たんぜい)力である。今の言葉でいえば、田畑の課税標準(かぜいひょうじゆん)のことである。百姓一人々々についてその石高があり、それを村で集計したのが「村高」である。石高は田畑一筆毎にその面積、地種、地質、品位、環境等いろいろの条件をもとにして、その土地の生産力をはかり、これを米の石高であらわしたものである。
 さてその「村高」は文政十年(1827)杉山村名主長蔵の手記と、勝田村名主三左衛門の覚書によると次のようになっている。

村々地頭性名石高下調帳   武蔵国比企郡村名石高之覚
       (杉山村)     (勝田村)
 遠山   七九石〇一三    八九石一〇三
 平沢  二三五石八四〇   二四二石三四四
 千手堂 一一四石〇二四   一一四石〇二四
 鎌形  六八五石三九五   七〇五石三九五
 大蔵  二八〇石一八〇   三〇〇石一八五
 将軍沢 一六四石一〇三   一六四石一〇三
 根岸   七二石〇一一    七二石〇一一
 菅谷  二〇二石〇七一   二〇二石〇七一
 志賀  四三二石四六〇   四三二石四六〇
 太郎丸 一〇〇石一七〇   一〇〇石一七〇
 広野  四二九石〇〇〇   四四九石五一六
 杉山  一九四石一〇〇   一九四石一〇〇
 勝田  一九三石六二一   一九三石六二一
 古里  三一九石六三九   三一九石七二九
 越畑  四六八石一九五   四六九石一九五
 吉田  七〇〇石〇〇〇   六九九石〇〇〇

 杉山村の調査と、勝田村の調査とに差額のあるのは、前者は社寺領等朱印地、除地無税地を除外してあるからである。「村高」は大体右【上】のとおりに一定していたようである。
 「郡村誌」の管轄沿革の項には正保年中の郷帳「武蔵田園簿」にあげられた石高をひいたものと、その他にところどころ別の年代の「村高」があげてあるが、これは右【上】の村高と一致しない。

     (田園簿から)     (その他から)
 鎌形  三五四石二二五
     (二〇石〇〇〇)
 将軍沢  七三石七三〇  一六四石一〇三 天保十三年(1842)
 根岸   四〇石七一〇   七二石〇一一 天保十三年(1842)
 大蔵  一五七石九六五
     (一〇石〇〇〇)
 千手堂  九二石四三五
 遠山   四九石一〇〇
     (一〇石〇〇〇)
 平沢  一四一石九一五
      (六石五〇〇)
 菅谷  六三二石四六〇  二〇二石二七一 安永元年(1772)
     寛文年間志賀分村
 志賀           四三二石四六〇 天保十三年(1842)
 勝田  二五四石〇七八  一九三石六二一 安永九年(1780)
      安永五年菅田村を分村
 杉山  一九四石一〇〇
 太郎丸  水房枝郷    一〇〇石一七二 岡部氏の時代
 吉田           六六三石二四九 風土記稿
              六九九石七五一 明治元年(1868)
 広野  四六七石四五五
 古里  三一九石六三七 正保年間
 越畑  四六八石一九五

 文政年間の村高は、正保の田園簿よりも増加している。然し安永、天保度の数字とは一致する。これはどんな理由によるものか、今明らかにできないので、ただ村々の石高を掲げるだけで先に進むことにする。
 尚、村々には、村勢要覧とでもいうべき、「村鑑帳」が備えられた。次に、明治三年(1870)千手堂村から政府に提出した「村鑑帳」(関根関太郎氏蔵)を掲げて参考に供する。内容は江戸時代とかわらない。

   村鑑帳
一 高 百拾四石弐升四合
一 田 合五町五反四畝七歩
一 畑 合弐拾三町四反三畝廿五歩
一 石盛 上田十 中田九 下田七 下◇田五 上畑六 中畑四 下畑三 下々畑壱 新下々畑弐
一 寛文八年申八月坪井次右衛門様御検地
一 延宝八年申九月中川八郎右衛門様御検地
一 水損少く御座候
一 旱損多く御座候
一 小物成諸運上無御座候
一 家数 三拾四軒
一 人数 百九拾壱人
一 馬  拾壱也
一 農間女稼木綿機を織着用仕候
一 百姓林無御座候
一 御林無御座候
一 秣場 三ヶ処
一 漁猟場無御座候
一 御普請所無御座候
一 自普請所御座候
一 米津出無御座候
一 東京迄里数拾八里
一 村方山続き作場嵯峨勝ニ而悪場ニ御座候
 右之通相違無御座候 以上

 これが千手堂村の実態である。これを集約(しゅうやく)したものが、高一一四石二升四合である。これは文政十年(1827)の石高調査書と一致している。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)34頁〜38頁
このページの先頭へ ▲