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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

一、村の成立

第1節:村高

村のとらえ方

 比企郡町村会、議長会は、比企郡下八ヶ町村、吉見、川島、滑川、嵐山、小川、玉川、都幾川、鳩山の各町村長、議長をメンバーとする地方自治研究団体である。各町村行政の実体を知らせあい、情報を交換し、各町村協力の下にそれぞれ町村の健全な発展をはかろうとするものである。ところでこれ等の団体の運営費、つまり、町村会費や議長会費を負担する方法は、その半額が平均割、あとの半分が、町村の人口割となっている。又、役場職員の事務研究会、県の出先機関に対する寄付金の割当等についても、分担の基礎となるのは町村の人口である。このことから人口は、町村の現有勢力や規模を最も端的に表現する目じるしとなっていることがわかる。事実、私たちも人口二五、〇〇〇の町といえば、「ああこれは小川町位だ」とか、人口四五、〇〇〇といへば「東松山市程度」だとか考えて、遠い地方の見たことのない市町村についてもその人口によって、その市町村のすがた、町の商店のただずまいとか、街のにぎわいの様子などを想像することができる。そしてこの想像は大体に於てあたっていると考えてよい。

 今の町村では、その規模や勢力を象徴するものは人口である。私たちは人口によって町村をとらえているのである。ところが江戸時代では村のとらえ方がちがっていた。人口ではなく「高」であった。「村高」が村の全体をあらわすしるしであった。文政四年(1821)二月十四日、羽尾村で「風土記稿」の資料調査が行なわれた時、これに出席した十三ヶ村がその時の経費を分担している。これについて広野村の「口上書」には
 「拾三ヶ村高六千百拾石 会所掛り金参両弐朱也 此割合高半分 村半分割ニ仕候」
と書いてある。平均割で半額、「村高」に応じて半額という割り方である。「村高」が今の人口の役割りをしていたことがよくわかる。村の勢力や規模は「村高」によってあらわされた。「村高」をみれば、その村の実体がとらえられた。「村高」によって村の姿をとらえたのである。村とはいわば「村高」であった。だから、村の成立したのも「村高」がきまったときと考えてよいわけである。
 明治維新によって、新らしい中央集権の政治が出発するとき、その基礎的な仕事となったのは、人口の把握と土地の調査である。このために、明治四年(1871)四月に戸籍法が制定公布され、「全国総体の法」として、全国一円にその実施が計られた。そして町村を合わせて区を定め、この区毎に責任者として戸長をおいて正確に人口の調査を行った。これは翌五年(1872)である。戸籍法はこの年から実施されたのである。この戸籍法には「臣民一般(華士族卒祠官僧侶平民迄ヲ云)」を「其住居ノ地ニ就テ之ヲ収メ専ラ遺スナキヲ旨ト」し、それ「故ニ各地方土地ノ便宜ニ随ヒ予メ区画ヲサタメ毎区戸長並ニ副ヲ置キ長並副ヲシテ其区内ノ戸数人員生死出等ヲ詳ニスル事ヲ掌ラシム」と規定してある。戸長役場は、区内の人口調査をすることが、その主な役割であったのである。その後区制の廃止や連合戸長役場の設置、町村の合併等があって今日に及んでいるけれども前述のように人口は、町村の規模や勢力の象徴であるという性格をもつようになった。人口によって、町村の実体をうけとるという方式は、明治初年の人口調査がその起因にあると思われるのである。
 とすればここでいゝたいことは、江戸時代に、長い間、村の象徴として用いられた「高」についても、そのきっかけがあるにちがいないということである。人口調査と同じように「高」の調査が行なわれたに相違ない。しかもそれは全国的の規模で、同じ方法によって、きわめて正確に行なわれたものだらうということである。人口とか「高」とかいうような、全て数量に関するものは、これを比較対照するときその数量を算出する条件がみな一致していなければ何の意味もない。だから、同じ方法で極めて正確に計られることが第一の要件である。そしてこれは出来るだけ広い範囲にわたって数多く実施されることが必要である。多ければ多い程、その数字の価値は増してくるからである。
 こうすれば「高」は全国共通のものになる。どこの村にも共通であるから「高」割りで村の経費を負担することも出来るのである。村のすがたを「高」でうけとることも出来るのである。ではそのような「高」の調査を行なったのは何時で誰であったのか。これが「太閤検地」だといわれているのである。ここで私たちは、検地の問題にはいらなければならない。そして「村高」のきめられた時期や村々の成立した時代をさぐらなければならないことになって来た。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)31頁〜34頁
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