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嵐山町web博物誌・第5巻「嵐山町の中世」

COLUMN

5.コラム:後北条氏の城郭ネットワーク

後北条氏の支城制

 小田原城に本拠を置く後北条氏は、関東を支配下に組み入れていく過程で無数の城を築きました。このうち戦略上の重要拠点におかれた根城には一族の者を城主とし、その周辺には支城や枝城、端城と呼ばれる中小の城郭群を配置して点と線を結んだ領国の支配と外敵に対する防衛ラインとしました。とくに甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信とは常に緊張の関係にあり、激しい戦いが繰り返されます。八王子城や鉢形城はまさにその渦中におかれた代表的な支城で、この方面に領国防衛のための主力が投じられたことを物語っています。

後北条氏領国図(主な支城)
後北条氏領国図
後北条氏は相模国(神奈川県)に本拠をもつ新興勢力です。そこで関東の地元武士団の支配体制を固めるために一族の者を城主とした堅固な支城を各所に配置しました。また隣国とは常に緊張した関係にあって、城と城とを連絡するネットワークが網目状にはりめぐらされていました。
小田原城/国指定史跡
小田原城|写真 (小田原市提供)
後北条氏五代(早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直)が本拠とした戦国時代最大級の城郭です。本城を中心に周囲12kmに及ぶ惣構と呼ばれる土塁と空堀が城下全体を取り囲んでいました。天正18年、秀吉の大軍を相手にした籠城(ろうじょう)戦を最後に後北条氏は滅び、関東の戦国時代に終止符がうたれることになります。
後北条氏系図
系図 三代氏康の頃にはほぼ関東全域に支配が及びます。一族の者が地元の有力武士と縁戚関係を結んで勢力を拡げていったことがわかります。
八王子城跡/国指定史跡
八王子城跡の碑|写真 後北条氏は三代氏康の代に関東のほとんどを制圧しましたが、四代氏政の頃には西から織田信長、豊臣秀吉が天下統一の動きを強め、関東をうかがう勢いを見せていました。
八王子城は氏政の弟氏照を城主として築城された西関東最大の支城ですが、武田氏滅亡後に最も脅威となった甲斐方面の守りを固めるのが重要な課題だったことがわかります。