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嵐山町web博物誌・第5巻「嵐山町の中世」

COLUMN

2.コラム:義賢の伝承

 1153(仁平3)年から1155(久寿2)年までのわずか二年余りでしたが、源義賢は現在の嵐山町に住み、この地で生涯を閉じました。義賢の墓と伝えられる五輪塔が大蔵館の近くの新藤氏宅内に所在しているのをはじめ、多くの伝承が嵐山町と近隣に残されているのはそのためです。
 その一例として、義賢にちなんで、ときがわ町萩日吉神社において三年に一度流鏑馬(やぶさめ)が行われています。この流鏑馬は、義賢の遺臣といわれるときがわ町の馬場・市川・荻窪家と、小川町大塚の加藤・横川・伊藤・小林家が代々執り行っています。また、鎌形八幡神社の競馬も、この七氏によって奉納されていました。その他に、群馬県吉井町多胡には義賢館跡と伝えられる場所があり、東京都世田谷区大蔵にも義賢の墓と言われる供養塔があります。

源義賢の墓/県指定史跡
源義賢の墓|写真 大蔵の新藤正則氏宅地内に所在しています。五輪塔は火災にあったためか変色していますが、埼玉県内では最古の部類に属する優品です。義仲の父、源義賢の墓と伝えられています。
鞍(くら)・鐙(あぶみ)
鞍|写真鐙|写真 (鎌形八幡神社蔵・埼玉県立博物館提供)
鎌形八幡神社の流鏑馬を伝える遺品として晴れの舞台で馬を飾った鞍や鐙がのこされています。
鎌形八幡神社の流鏑馬
鎌形八幡神社の流鏑馬|写真 (簾藤惣次郎氏蔵・埼玉県立博物館提供)
流鏑馬は大正の頃まで行われており、昭和になってからは競馬に変更となりました。この競馬はときがわ町萩日吉神社に流鏑馬を奉納する七氏によって執り行われました。義賢の遺臣といわれる人々が縁故の土地で伝統の祭りを守り伝えていたことがわかります。
萩日吉神社の流鏑馬/埼玉県指定民俗文化財
萩日吉神社の流鏑馬1|写真萩日吉神社の流鏑馬2|写真 (ときがわ町教育委員会提供)
神社に伝わる『木曽家引略記(きそけいんりゃくき)』という文書によれば、義仲の遺児義次郎(よしじろう)が母方の姓馬場にあらため、馬場義綱(よしつな)と名乗ります。そしてかつての家来七氏をたよって明覚郷(みょうかくごう)(ときがわ町明覚)に住んだといいます。流鏑馬の神事はこの七氏が奉納し、現在まで継承されています。
萩日吉神社
萩日吉神社|写真 ときがわ町西平にあります。
社伝によれば、蘇我稲目(そがのいなめ)が欽明天皇6年に創建したのが始まりといいます。鎌倉時代には、慈光寺一山鎮護の神社となり、源頼朝や政子からも手厚く保護されました。うっそうとした杉の大木に覆われた境内は神社の歴史の重みを感じさせるたたずまいです。