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第6巻【近世・近代・現代編】- 第5章:社会

第1節:社会基盤・通信・交通

電気・水道

水汲みの重労働からの婦人の解放

 平沢部落といえば「水無し部落」で通っていた。この「水無し部落」に一ヵ所清水のわきでる「赤井の井戸」があった。干ばつ時には、六〇戸の部落中、四〇戸以上がこの井戸水を利用した。もちろんこの井戸は部落の管理下にあり、春の衛生、秋の衛生の二回、部落を二分して「井戸かえ」をやり衛生面にも注意されていた。この井戸を利用しない残り世帯とて決してきれいな水ではなかった。井戸のわきを排水が通ったり、田圃の湧水が侵入したりして夏季伝染病も後を断たなかった。
 そこで思いついたのが「文化農村建設は水資源の解決から」ということでこの井戸を利用して簡易水道を建設することであった。役場の係を訪ね、いろいろ補助事業を拾いだしてみたところ新農村建設事業の中に、農村の環境整備事業として簡易水道の敷設のあることが確認できた。
 一九五五年(昭和三〇)を頂点として日本食糧事情は安定需給の方向に向いていたのである。日本農政を左右するケインズ経済学の農業学者、大河一司、川野重任等は、「農協基本法」の地ならしとして農村の環境整備を打ちだしていた。
 さっそく部落に帰り奥平美太郎君と相談し、「できることならやろう」ということに一決。
 元老格の内田実氏、西光慶氏、内田保治氏らにも話をかけてみんなで協力し完成させようということになり、翌日私の家でその相談をし、内田保治氏を建設委員長として利用者全員に協議してもらうことになった。
 何百年か苦しんでいる問題であり、話はとんとん拍子に進められた。総工費は試算して一二〇万円位、雑費十万円としても一三〇万円であり、一世帯当たり自己負担金は一万二〇〇〇円程度であった。当時農村の労働力は十分あった。自己負担金を水道敷設人夫として一日三百円で労力出費できるものはそれでもよいということにして出費者の便宜ヲはかった。みんな喜んで、労力出費し残額を現金出費とした。
 毎日の監督は、建設委員の輪番制でやった工事は順調に進んだのだがちょうど台風で水源地工事は難航をきわめた。
 請負業者は東村山市の堀田工務店であった。
 堀田工務店も現在では手広く工事をやっているが、そのときはまだ県の指名業者になっておらず平沢の水道工事をきっかけに県の指名業者の資格をとった。まだ当時とすれば水道工事としては大きい事業だったのである。
 平沢の水道完成後大字菅谷地区でも簡易水道工事の話がもちあがり、簡易水道の実現をみたのであり、現在の上水道の前身なのである。平沢の簡易水道工事の成功が本町の全水道の端緒を開いたといってもあながちいいすぎではないだろう。

湧水に喜ぶ婦人達

 夕方になると幾組かの水汲みの婦人たちが顔をあわす。夕方の水汲みは婦人のその日の日課となっていたのである。
 農業労働にいくら疲れていようと水を汲んできておかなければ明日の朝食が炊けないのである。雨が降ればミノやカッパを来て水を肩で運んだのである。
 水源工事が終わり、ある日の夕方通水試験をおこなった。私たち建設委員は各戸通水状況を見てまわった。各戸とも完全通水。各家庭に喜びの歓声が挙がった。どこの家庭でもご婦人方が「ありがとうございました」と深々と頭を下げるのである。文化農村の建設も水からである。通水のしばらくの茶飲み話は簡易水道の話でもちきりだった。
 近隣町村で「水無し部落平沢へは嫁にくれるな」ということが長いあいだささやかれていたのである。
 水にまつわる逸話はいくつでもあり、話に事欠かない。赤井の井戸に遠い家では、屋根に降った雨水は全部井戸か池に貯水するようになっていた。
 「ある家で奉公人を二階に寝かせたら下の便所までおりるのが厄介で二階の窓から小便していたので一年中雨水が樋(とい)を通り小便水といっしょに井戸のなかに流れこんでおり、奉公人の小便で食品を洗い、お風呂を湧かしていた」という笑話もある。
 「ある家で草葺屋根職人を頼み、先に風呂にはいってもらったら垢(あか)が体に真黒につき、いくら洗ってもきれいにならなかった」とか。
 「風呂の水は、箸を風呂に立てて倒れるうちは水を換えない」とか。節水にかかわる話はいくらでもある。それだけ水が貴重な存在だったのである。これだけ貴重な水が蛇口一つひねれば自由にでるのであるから、過去を考えれば嘘(うそ)のような話である。
 現在では水は蛇口をひねってだすもののように思われているが、当時の家庭の主婦のほとんどが赤井の井戸から飲料水は肩で運んでくるもの…というのが常識だった。
 この赤水の起源はおそらく平沢寺の全盛時代の閼伽水に起因していると思われる。閼伽水とは(広辞苑によれば)朝、仏前に供える清水のことであり、おそらく井戸の平石等からしても若き僧の寒水の令水をかぶっての修業のための、清水であったにちがいない。
 この清水(赤水)が蛇口一つで全部落にゆきわたるとはいかに賢人といえども予想だにしなかったことであろうと思われる。
 私が水道建設の話で谷の家(やごう)の村田勇太郎さんを訪ねた。相手もその話を察していたのか、勇太郎さんは、「いくらお前が頭がよくも俺の家まで水道は持ってこらねべい」というのである。
 「親爺それは簡単だよ、必ずもってきてみせる。工事はやらせてもらうぜ、もし水がこない場合は工事費はもらわないよ」
 「よし…それならよかろう」というのである。
 「そのかわり水がくれば即金で金はもらうぜ」と冗談をとばした。
 通水試験の日、谷の家を訪ねた。「どうだ俺の勝ちだろう」というと、「たまげた、たまげた」の連発だけだった。
 「とても明治生まれの俺たちには考えられないことだな」と感心するだけだった。

『山田巌遺稿集』90頁〜95頁 1987年(昭和62)12月
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