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第6巻【近世・近代・現代編】- 第2章:政治・行政

第3節:昭和(町制施行後)

嵐山町

若者と考える わが町のイメージづくり

 一九八八年、末広がりの希望にあふれた新年を迎え、「活力あるまちづくり」を進める嵐山町にとって、今年が成功への登竜門となるのでしょうか。
 そこで、新人類とか、自己中心的いわれる若い世代、勉強に仕事に、そして遊びに趣味に多忙な若い世代に、社会参加を求め、彼らの助力を引き出す方法を探れたら、と思い取材してみました。

20代の70%以上が町政に関心をもつ

 現在嵐山町は、町民の平均年齢が三十四・九九歳という若い町です。そして全人口一万七千二百五十七人に対し、二十代の占める割合は二千四十三人、一一・八%です。(昭和六十三年一月一日現在)
 嵐山町の二十代の若者が、この町をどのように感じているか。昭和六十一年(1986)二月に、町の広報公聴課が実施したアンケート調査によると、町の住みよさについては、回答者の七五%がまあ住みよい・普通と答えているものの、日常の交通の便利さに七八・五%、買い物の便利さに八五・七%、教養を高める機会に六四・三%、スポーツ施設に回答者の七五%が、何らかのかたちで不満をもっているようようでした。
 しかし、心配した町政への関心は、非常にもっている・いくらかもっているとの回答があわせて七一・四%もあり、ほとんどもっていないという回答はゼロですから、これは期待のもてる結果です。

力をあわせ、エネルギーを発散させたい: 団体代表者による座談会

 では実際に、現在町内で活躍している若者たちの意見を聞くため、十一月末の夕刻、青年クラブ、青少年相談員、手話を学ぶ会、4Hクラブ、ボーイスカウトの各団体から代表者に出席していただき、座談会を開きました。
 そのときの内容を要約すると、嵐山町の自然環境の良さはほとんど全員が認め、今後もたいせつにしていきたいと考えていました。そして、「槻川の河原、歴史資料館付近の散歩道、都幾川の桜、嵐山渓谷、鬼鎮神社と誇らしく紹介できるものがいくつもあります。けれど残念ながら、自由に伸び伸びと遊べる広場がありません。グランドは各団体でいつも使っているし、芝生のある場所は立ち入り禁止だしで。環境整備という面では、花いっぱい運動も予算の関係からか、まだまだ花の数が少ないと思います。また、空き缶回収にデポジット方式を取り入れてほしい。橋上駅も実現してほしいし、町に活気という意味では大手企業の誘致もしたいし大きなデパートもほしいが、自然を損なう心配もあるし ………。
 町の行事の中では、嵐山まつりのPRをもっと積極的にしてほしいし、時代まつりなどはぜひ見たかったです。音楽祭は文化的田園都市のイメージ作りにぜひ続けてほしいと思います。ただ、町民体育祭には魅力を感じないのです。できれば、行事の企画の段階から各代表の意見を集め、取り入れるようにしてほしいと思います。企画に、若い人を引きつけるだけの魅力がないことが多いのです。
 若い人たちの団体をまとめて、埋もれている若者の考えを引き出し、活動の場を作ってもらえたら、町全体で参加できて、伝統となるような大きな祭りを何かやってみたいという気持ちは十分あります。」と語ってくれました。
 最後に、彼らに町を色にたとえたら何色かと聞くと、答えはモスグリーンかダークグリーン。これを黄緑にしていきたいということでした。

美しい自然をいつまでも そして国際色豊かなまちに

 新成人となった若者二人に聞いてみました。
 一人は千葉県に住み、一人は都内に通う大学生です。二人共通していることは、やはり嵐山町は故郷であるということです。深い歴史と豊かな自然に恵まれたこの町は、休息の場であり、安らぎの場でもあり、将来も住民として生活するたいせつな町だということです。加えて文化的近代的施設の建設、工業団地導入による産業の発展を願いながら、その美しい自然をいつまでも失わずに、国際色豊かな町になってほしいと若者の希望は実に欲張りで、しかも町内の各団体のリーダー同様、頼もしいかぎりでした。

嵐山町のイメージは黄緑色?

 一方、町政に携わっている人々はこの問題についてどう考えているか聞いてみました。
関根町長 町の活性化は、野球、ソフトボール、綱引きなどのスポーツを通じてやっていきたい。特に若い人には、身体を鍛え、スポーツ精神を養って、友情を育て団結を図ってもらいたいと思う。
 ただ、学校や勤めの関係で時間的に余裕のない、青年たちの意見や考えを聞く機会が少ないのは確かです。
 しかし、自らリーダーとして何かに取り組もうとする意欲をもった青年が出てきてほしいのです。そういう人たちを、積極的に応援していきたいと考えています。
 町の色は、黄緑です。萠える新緑です。
飯島教育長 今は価値観が多様化し、若者はそれぞれのグループで活動しているのでしょう。この年齢は勉強や仕事、趣味に熱中している時期であり、各自がエネルギーを蓄えている時期でもあるので、無理やり引き出すことは難しいでしょうね。
 だけどいつかは必ず出てきてくれますよ。決して無関心ではないでしょうし、自分の住む町のことですから、いずれ真剣に考えてくれると思います。
 町の色は、調和のとれた穏やかな中間色でしょう。
長島議長 私がまだ青年だった昭和三十二年(1957)から四十年(1965)ごろまでは、青年団活動が盛んで、十五、六歳から二十五歳の農村青年が二百名くらい集まって、演劇、コーラス、スポーツに熱中していました。活動資金も新聞配達や農協の作業の手伝いなどして、自分たちで調達したものです。
 今の若者たちは、それぞれの組織の中では活躍しているのでしょうが、社会的な面では消極的で、統一されていないようです。自分のためだけでなく、地域社会にもう少し目を向け、郷土に愛着をもってほしいですね。
 町の色は、さわやかで広く明るい空色と、暖かなオレンジ色ですね。

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 町の活性化は、若者たちが行政に参加したからといってすぐになされるものではなく、町民全員が町を愛し、生き生きと活動することによって実現されると思います。しかし町の将来を考えるとき、やはり若者たちに無関心でいてほしくはないし、できれば積極的に参加して経験を重ねながら、町のことを考えていってほしいと願うのです。
 ただ、嵐山町のマイナス面として、全人口に占める二十代の若者の絶対数がなぜか少ないこと。勤労者、学生の多くが町外に通勤、通学しているため、町内にいる時間の少ないこと。そして最も活躍が期待される農業後継者は、現在、減反政策や農業自体が抱える問題(労働時間、労働の生産性)のために、専業化することが非常に困難になっており少数になってしまったということが挙げられます。
 しかし明るい材料はありました。若者達は、嵐山町を自分の故郷であると考え、愛している人が多いこと。町の美しい自然をたいせつにしたいと思っていること。また、機会があれば若者自身が協力し、力を出し合って何かやってみたいという気持ちがあること。そして行政側も、意欲のある若者が出てくれば応援しようという準備のあることなどです。
 町長にとって嵐山町は既に黄緑のイメージでしたが、若者にはモスグリーンでした。これを黄緑にしたいという若者たち、自ら勇気をもって立ち上がり、町のイメージづくりに参加してください。

『嵐山町報道』360号 1988年(昭和63)1月25日
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