ページの先頭

第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

四、村の地名

第7節:結び

村の成立について

 「風土記稿」によると千手堂村ははじめ、幕府直轄地、享保八年(1723)大岡越前守が領し、宝暦元年(1751)に所替があって再び天領に戻り、同十三年(1763)に清水家の領知となったが、寛政九年(1797)に又、天領に復したという。「沿革」ではその後の異動を伝えて、文政七年(1810)清水家の再知、転じて天保十四年(1843)二月川越領主松平大和守の支配に移ったと書いている。
 村差出明細帳は、前掲のように「村鑑」ともいって、いわば村勢一覧ともいうべきものである。藩主の所替、幕府の巡見使派遣その外必要のあるとき提出させ、あらかじめ村の概況を知る資料としたものである。
 この明細帳は天保十四年新領主松平氏の命令で、その郡代役所に提出したものである。
 千手堂村で検地の行なわれた最古の記録は寛文八年(1668)八月廿一日である。この時太兵衛、仁兵衛、五郎兵衛という三人の百姓が案内したことは前に掲げた。千手堂村の「村高」はこの時に確定して、その「村高」は幕末まで変らなかった。これが明細帳の「高百拾四石弐升四合」である。この村高が他の記録にあらわれているのは、前掲の文政年間「武蔵国比企郡村名石高之覚」で、清水御領地「百拾四石弐升四合」とある。又、明治三年(1870)の「村鑑」も同じ数字になっている。ところで寛文八年(1668)の記録には「村高」は出ていない。然しこの「村高」が寛文八年に確定したものであることは動かないところであろう。
 その理由は「沿革」に載せた「御検地帳」の田畑の集計と、村明細帳の数字との比較である。即ち

「沿革」
 上田弐町五反六畝廿六歩
 中田壱町三反八畝廿四歩
 下田壱町弐反弐畝 六歩
 下々田 三反四畝拾九歩
  (計 五町五反弐畝拾五歩)
「明細帳」 五町四反四畝七歩 田方

とあって、その差 八畝八歩 前者が多い。ところが、後者に「八畝八歩」は元、田であったが、畑になってしまったと書いてある。従って反別は両者の間に全く矛盾がない。又畑についてみると

寛文 畑  二二二五畝一〇
   屋敷   七四 〇〇
延宝 切添畑  四六 〇一
   屋敷    三 〇六
田畑成      八 〇八
  計   二三五六 二五

となって、これも両者の数字が完全に一致するのである。これによって私たちは、千手堂村の村高は、寛文の検地で確定し、以後村勢を代表する計数として幕末明治に及んだと考えるわけである。尚、屋敷を畑に含めているのは、通常屋敷は上畑に準ずるものとしたからであろう。但し千手堂村の石盛は、田、十、九、七、五 畑 六、四、三、一 屋敷 十であった。
 このようなわけで、千手堂村の成立は、寛文の検地であると考られる。この時に隣郷、鎌形、遠山、菅谷、平沢との村境が定まり、出入作が整理されて、「村高」が確定し、現在の大字千手堂の形や内容が定ったのである。つまり制度の上で千手堂村が成立したのはこの時であると考えられるのである。
 寛文八年(1668)は、杉山村検地の慶長二年(1597)からすれば七十一年後である。小農自立の政策は可成り進んでいたと見てよい。検地案内の三名は村の実力者で、杉山村の外記や帯刀に相当するような大百姓の子孫であったろう。千手堂には今、内田、高橋、瀬山、関根、関口、西沢の六氏がそれぞれ一系統をつくっているが、これらの祖先に当る数名の大百姓が存在したものと思う。その大百姓が分解して独立の小百姓となり、本家や主家の姓を称して、現在のような六つの系統になったものであろうと思う。寛文の検地は、自立政策の総仕上げの時に当っていたと考えられる。ここで検地帳登録の本百姓が公認されて、この本百姓を成員とする村が出発したというわけである。
 「明細帳」に「当村百姓家数 三拾三軒」とあり、更に驚くべきことには「外に潰百姓弐拾弐軒」とある。廃絶した家が二十二軒あるというのである。ついでにこの意味を考えておこう。潰百姓二十二軒と記録する上は、はじめのある時期がなければならない。その一定の時から始って現在まで、潰百姓が二十二軒になっているということである。その一定の時期とは何時だろうか。三十三軒に二十二軒を足すと五十五軒になる。もとは五十五軒であった。

元治元年現在千手堂村持高表

 元治元年*1(1864)の千手堂村「小前持高帳」をみると、登録数六十である。内、寺院二、平沢村からの入作三、計五を引くと五十五の数が出る。元治元年現在千手堂村の高持百姓即ち本百姓は五十五軒あることになっている。これは右【上】の表にあげたとおりである。ところが文久四年(1864)の「人別御改帳」には三十四世帯となっている。表中・印のものだけである。あとの二十一世帯は、「持高帳」には載っているが人別御改帳には書上げられていない。即ちこれは現在存在しない世帯である。つまり潰百姓に当るものである。現在存在しない潰百姓の持高がどうして記録されているのであろうか。これは江戸時代通じて土地の永代売りは禁止となっていたからである。売買による移動がないのであるから、原則として一且高請けした土地は、いつまでもその高請百姓の名儀になっていて変動しないわけである。無論潰百姓の土地は誰かが代って耕作したり、村の共同耕作に移したり、又誰かがその家を再興したりして来たのであるが、最初の高請け百姓の名儀は最後まで続いていたわけである。それなら最初の高請けの時期はいつかといえば、これは検地の時以外にない。検地によって一筆毎の耕作者が決定、その所持高が定められたのである。これが高請けである。だからこれは寛文の検地ということになる。寛文八年(1668)に今の千手堂村とその成員となった個々の百姓の独立が、制度の上から確定したのである。五十五軒は寛文八年に出来たのである。然し多数の潰れ百姓の出たということはこの制度が必ずしも村の実体に促していたものではないことを示していると見てよいだろう。
 以上のことによって村の成立に関する私たちの考え方は、千手堂村にそのまま現われているといってよいだろう。

*1:文久4年2月20日(1864年3月27日)に元治(げんじ)と改元。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
このページの先頭へ ▲