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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

四、村の地名

第6節:村々の地名

▽根岸村

 根岸という地形の特長と名前の由来はすでにのべた。そして大蔵郷に属すとあるので、「大蔵館」の根岸であったかもしれないと想像したが、大蔵村と根岸村の関係では、観音様が安養寺の支配であり、村の鎮守神明社、三宝荒神社が安養寺持となっているから、両村の関係は深いと考えられる。安養寺は大蔵村鎮守山王社の別当をつとめている。いづれにせよこの村が古い開発の地であったことは、字名に我妻山、シトメ山、傾城谷等、昔の人達の意識や生活に結びついていると思われる名前があり、又都幾川の古い流路が残っていて、そこには皿淵・女淵・袈裟王淵などいう伝説めいた地名の場所があることなどから、推しはかることが出来る。
 我妻山(あづまやま) 吾妻山とも書き、前山ともいう。東北の二方は都幾川に向い、東南は神戸村の鞍掛山に連り、西は将軍沢村の耕地を一望し、北の一部は村内の水田、人家を見下ろしている。頂上に吾妻神社がある。祭神は日本武尊であるから、吾妻山の名は、日本武尊の「吾嬬者耶(あづまはや)」の伝説から出たものであることは明らかである。
 道灌(どうかん) 松山県道の両側字道上の一部である。珍らしい名前である。地元の古老に尋ねたが不明である。道灌といえば、すぐ太田道灌に結びつけたいところであるが、これは無理だろう。地名辞書によると「どうかん」と呼ぶ地名には、東京日暮里に「道閑山」があるだけである。この道閑山も太田道灌に結びつけて、道灌のつくった城のあとだという説がある。然し新編武蔵風土記稿ではこれを否定して、「大道寺幽山の落穂集追加に、ここは関道閑という人の屋敷蹟であるということを、北条安房守*1が聞伝えていた。又谷中の感応寺と根岸村の善性寺は、関小次郎長耀入道道閑の開基であって、この人がこの辺を領していたというから、道閑山は関道閑*2の住居蹟であることは明らかである。太田道灌が有名なので、近郷、ややもすれば、彼が事蹟に付会するのみ」*3といっている。有名な道灌山(道閑山)でもこのとおりであるから、根岸村と太田道灌は縁がないようである。観音堂などと結びつけたい地名であるが、その手がかりが得られない。関道閑に関して同じ名の根岸村が出ているのは奇しき一致である。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)

*1:北条安房守氏長(1609-1670)。後北条の一族、甲州流軍学の流れを汲む兵学者、旗本でオランダ築城法、攻城法、地図学なども学んでいた。地図作製当時は幕府大目付を勤めている。
*2:関道閑は、江戸付近の土豪。日暮里付近の「道灌山」という地名の由来は太田道灌と関道閑の両説がある。
*3:『落穂集』は江戸中期の兵学者、大道寺友山重祐(1639-1730)の1727年(享保12)の著作。徳川家康の出生から大坂夏の陣まで編年体にまとめたものと、家康の関東入国以後江戸時代初期の政治、経済、社会、文化等の各分野のおこりを随筆風に記録し、落穂選集といわれるものがある。

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