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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

四、村の地名

第6節:村々の地名

▽菅谷村

 「沿革」に「往昔ハ須加谷ト書シ寛文年中(1661-1672)今ノ字二改ムト」とあり「風土記稿」にも同じように書いて「梅花無尽蔵二長享年間(1387-1488)、須費谷之地平沢山ト云フコトミエタリ」といい、正保年間(1645-1648)にはまだ須賀谷で、元禄の図面には菅谷と書いてあると説明している。
 菅、菅山、菅田、菅沼、菅野、菅原、菅内、菅生等、菅のついた地名は全国的に多い。地名辞書によると菅谷だけでも北足立郡桶川町の菅谷村、千葉県山武郡の菅谷郷、茨城県結城郡の菅谷、那珂郡の菅谷、福島県相馬郡の菅谷(須萱とも書く)及び菅谷郷など数ヶ所を数えることが出来る。
 さて文字はどう書いてあっても「すが」は「すげ」であろう。
 菅(すげ)はカヤツリグサ科のスゲ属にぞくする植物の総称であり、日本には二五〇種もある。山野に自生し茅に似ている。茅はチガヤ、ススキの類であると書いてある。
 菅の生い茂った山野の印象から「菅」何々の地名が生じたと考えて間達いないだろう。菅谷もその一つである。菅は全国的に分布するというが「菅」のつく地名は大和より東方の国々に多い。とくに菅谷は埼玉、千葉、茨城、福島の諸県に存在していることなどを見ても、「武蔵野はかや原のみとききしかど」という後土御門天皇の御歌のように、東方の未開発地に来るに従って草原が多く、菅谷などと名付けるにふさわしい土地が各所に広く連っていたのであろうと思われる。私たちの「菅谷」もこうして起った地名であろう。然し「谷」とはおかしいではないか、今の菅谷の地区は、旧菅谷村でも高台の地である。「谷(たに)」といっては当らないという疑問が出ると思う。然し「谷」はタニではなく「野」の意味であることはすでに述べた。菅の自生した野の意味である。高台の地であって一向さしつかえないのである。
 寺山(てらやま) 寛文の検地帳に出ている寺山の地域が現在も寺山と呼ばれている。農士学校の敷地の場所である。「風土記稿」には、東昌寺は元、長慶寺といって、古城の鬼門にあった。誰が開山であるか伝わっていないといっている。鬼門は丑寅(艮)の方、東北隅で隋書に「廻風従艮地鬼門来」とあり、ここは万鬼のあつまるところで毒気がこもっているとも説き、日本でも東北の隅は日之少宮(ひのわかみや)の所であるから犯してはならないとされていた。日之少宮は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)のおられた宮である。比叡山は王城の鬼門、寛永寺は江戸の鬼門であって、いづれも東北の方角に当る。寺山の名はこの長慶寺の所在地であることから起ったと考えられる。農士学校の崖下、本丸と二の丸との境の谷の出口付近を、もと長慶寺渕といっていたというから、この崖の上に長慶寺があったと思われる。とすると長慶寺が古城の鬼門にあったとする説はおかしい。寺山は古城の東北ではなくて東南である。この矛盾はどう解決したらよいだろうか。一説には川島の鬼鎮神社が、菅谷の館の鬼門除けとして祀られたのだといわれている。これは東北方に当っているから鬼門としての条件には叶っている。長慶寺が古城の鬼門だとすれば、この方角に持って来なければならない。然しそれでは長慶寺渕の名が無意味になる。それでは結局のところ「風土記稿」の古城の鬼門という説は誤りとしなければならないだろうか。
 「沿革」の寺院の項には、東昌寺について「往昔ハ長慶寺ト云ヒシ由、村ノ東方多田堂トモ千日堂トモ云ハル堂地ニアツテ、年久シク無住ナリシヲ本寺九世ノ僧、村民関根孫右衛門ト謀リ、今ノ地ニ移シ、旧寺名ヲトリ山号トシ……」とあって、長慶寺は村の東方の多田堂(千日堂)の敷地にあったと述べている。そして別に「多田山千日堂」について、これは村の東隅にあって開基は志賀村の多田平馬、正徳四年(1714)に建立したものである。ここは昔の長慶寺の廃寺跡で、宝永二年(1705)に多田平馬がこれを領主の岡部元親から貰って、堂宇を建立したのである。といっている。千日堂の地はもと菅谷小学校の敷地内で、古城の東北方に当る。ここが長慶寺の廃寺跡というのであるから、長慶寺は鬼神様と同様に古城の鬼門である。然しこれをとれば、前述のように長慶寺渕や寺山の名が無意味となる。
 この矛盾を解く鍵は案外手近い場所にあった。今、千日堂(観音様)の傍に一つの石碑が残っている。この碑文に「武蔵国比企郡菅谷村者畠山重忠之墟也 方盛城傍置仏寺曰長慶 至中世遷於此云 寛永中岡部某公受邑是地 有故廃寺 宝永三丙戌(1706)遂以其址賜先太夫多田重勝 命永為塋域 乃安干千手大士多田堂……」 とある。寛政九年(1797)に多田英貞が誌したものである。
 これによれば、城の盛んな時代に重忠館址の傍に長慶寺を建立した。その後中世になってその寺をこの地(千日堂)に遷した。而してこれが廃寺となっていたが、多田氏が貰いうけて千手観音を安置して多田堂といったというのである。これで先の疑問は一切解決する。長慶寺ははじめ寺山、長慶寺渕の崖上の辺(あた)りにあったのである。然し鬼門除けの意味ではなかった。中世になりこれを千日堂の地に移した。あるいは城の鬼門除けのためであったかもしれない。この寺が廃(すた)れたあとに千日堂が建立されたのである。その廃寺が復活して長慶山東昌寺となったという筋道になる。これで「風土記稿」と「沿革」の記載が了解出来るわけである。寺山は長慶寺所在の地名であった。
 渕の端(ふちのはた) 都幾川は農士学校下の崖の下に大きな渕を作って流れていたらしい。今の坂下の一部に渕の端の地名があった。農士学校の水田の辺らしい。
 城(じょう) 現在の城の地域は、城の内、城の下、城の堀合など、いくつかの小字に分れていた。いづれも城を目印しにつけたもので、古城が菅谷村の代表的な施設であったことを示す。
 東裏(ひがしうら)、西裏(にしうら) 今の東側西側の地域と考えてよい。東裏、西裏となるともう菅谷の中心部は、城を離れて街道筋に出たことを示す。そのころの街道は今の菅谷の国道から志賀を経て奈良梨に通ずるものであった。これを示す資料として「風土記稿」に天正十年(1582)北条家から奈良梨の鈴木氏に対して発せられた伝馬継立の掟書に
「一西上州表伝馬之事 奈良梨より高見へ可次 此方者須賀谷へ可次事」とある。菅谷、奈良梨、高見、男衾、寄居を連ねた街道があったのである。
 同じ「風土記稿」に「奈良梨村諏訪社は、古くはこの近辺十五ヶ村の鎮守として崇敬された大社であって、その一の鳥居は須賀谷村、二の鳥居は中爪村にあったといっているが、当該村にはその伝えがないからあやしい。」といっている。鳥居の存在はともかく、そのような通路のあったことを示す資料としてよい。
 志賀村でもこの街道をはさんで、東町裏と西町裏とがあった。同じ道路によって発想された名前である。もう一つ菅谷にも志賀にも、この道路から分れた場所に「横町」の家号がある。地名から来たものだろう。木村智昭氏と滝沢丑造氏である。成程志賀県道を本街道とすれば、これは横町というにふさわしい場所である。
 以上のような点から、菅谷の街道は志賀に通じるものが本街道であったことが分る。この頃からこの街道に上、下の区別がおこり、裏側には西裏東裏の地名が生じ、城に通ずる地区に本宿の名が出来て来たのであろうと思われる。
 御陣屋裏(ごじやうら) 今の久保の地区で、ここに山続と御陣屋裏との二つの字があった。陣屋は江戸時代、領主代官の役宅である。陣屋は今の中島長吉氏の屋敷の辺にあったという。
 天神廓(てんじんくるわ) 重忠像の手前水溜りのそばの高い場所だという。天神社(風土記稿所載)のあったところであろう。
 女堀(おなぼり)の起原は不明である。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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