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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

四、村の地名

第6節:村々の地名

▽吉田村

 岩殿観音がその鎮座の地を探して吉田村まで来た。観音様は百の谷をもつ土地を求めていたのだ。吉田村はその百にただ一つ不足し九十九の谷でつきた。そのため観音様は現在の岩殿山に立ち去ってしまわれた。という言いつたえがある。谷の多いということは、樹木の多い丘陵から常時小川が流れて、長い年月の間に、この丘陵を沢山のブロックに切りわけたということである。谷の口は常時小川が運んだり、時には大夕立などの山水のはこんだ沃土が堆積した。この沃土を利用し、谷の水をせきとめて、水田が開かれた。良田の多い村である。吉田(よしだ)といって、村民たちは豊かな郷土を讃美(さんび)したのである。これ等の谷々は、滑川沿岸の低地に向って、大体東から南の方向に開けている。滑川自体は灌漑よりも寧ろ排水路として利用されている。村人達は、谷の出口に、流水をためて水田耕作に役立てた。
 古里前の長竹あたりを頭として、七郷地区を北西から、南東に走る丘陵がある。大体、滑川と粕川にはさまれた一かたまりの小高い山の地帯である。
 手白神社は、吉田村の池の谷の入ロに祀られてある。もとこの神社の前は土手になっていて、松の古木が数本立っており、石碑があってこれを弁天といっていた。ところがこの手白神社に似た地形の場所、つまり滑川流域に向う谷の入口には、手白神社と同じように、それぞれの村の鎮守が祀ってあるが、その様子が皆同じようになっている。先ず勝田の淡洲神社がそうである。神社の前方に土手がありその付近を池田といっていた。滑川村の伊古の伊古乃速御玉比売神社の前にも土手があり、羽尾の恒儀社の前も又、同様である。いづれも同じ丘陵にきざまれた谷の入口に当っている。
 古里村の神社が村の一等地の内手地区に祀られていることはすでにのべた。その地続きの神伝田は古里村第一の穀物場である。村人の気持は皆同じである。村中で一番重要な場所が自から神様の鎮座するところとなった。神は村の平和と五穀の豊穣を守ってくれるのである。吉田村は九十九谷といわれる程の多くの谷々があった。この谷々は水にも恵まれてその奥深くまで水田が開かれた。又、谷の水は滑川の低地に引かれて灌漑用水ともなった。水田に恵まれた土地である。前述したように吉田村の地名は良田に恵まれたことから生れて来たと思われる。さてこの吉田村にも困難な地名が多い。
 矢崎(やさき) 古里村の内手や駒込と共にこの矢崎、馬場(ばんば)、陳屋東などが武士の戦に関係ある地名だろうといわれている。然し別の考え方もできる。矢崎の地形は丘陵の先が田圃の中にのり出して半島のようになっている。そもそもさきという字は崎、岬、埼、などと書かれるが、いづれも海中に突き出ている陸地という意味と、平地に突き出た丘陵のでばなという意味をもっている。海中へ出ている場合は、みさきといい、平地に出ている場合は、岡崎、尾崎などといっている。矢崎もその地形は名前の通りである。然し何故、やさきといったかその説明は出来ない。仮に文字通り矢と仮定しても、戦や武士の生活に関した矢であるか、信仰上の矢であるか、これもきめ手がない。信仰上の矢というのは、このように田圃の中に突き出した丘陵の突端は人の目につき易く、朝夕仰ぎ見る場所なので、それとなく小さな祠が祀られる場合が多い。浜弓場、浜矢場という地名があるように、矢がこれらの祠の神事に関係あることも想像できるからである。(志賀村の浜井場参照)
 うばが谷 町内に唯一つの地名である。山姥は深山に住むという女性の怪物である。姥ヶ谷の地名については、別にそのような神怪な伝説はないという。然し阿弥陀屋敷とか、姥ヶ谷とか、行者洞などというこの種の地名は各地に見られるという。これはそのようなうす気味悪いものが山の奥や洞の中などに住んでいると信じていた時代のあったことを示している。経済生活の発展につれて土地の開発がひろがり、その土地の由来を説明するような地名が多く現われて来ている中に、右【上】のような信仰や口碑に関する地名のあるのを見ると、私たちの祖先の原初の感覚というものに触れてなつかしい思いがする。
 手白・手白前(てじろ・てじろまえ) この地名は宝永二年(1705)の検地帳に見えるだけである。現字名には残っていない。「風土記稿」には手白明神社と社名のみ記載され、泉蔵院持となっていることが別の記載から知られるだけである。旧社格は村社で、手白神社と称している。
 手白の起源については次のような伝説がある。これは宝永三年(1706)に別当専蔵院から領主折井氏に提出したものだとされている。
 「仁賢天皇の第五皇女に手白香姫命という女性があった。武烈天皇の酷刑苛政(こくけいかせい)を諫めたが、きかれないので東国に下り、この吉田の里に止って、里人を教化した。元来東国人は性質が粗野で気心がたけだけしく、人倫の道を弁え知るものが少かった。けれども姫の教化によって、人心が改まり、知識もひらけ、遠近の里人が姫を敬慕して村がよく治った。ところがある日、手白姫が村内を巡回し、とある清水で手を洗おうとして、懐中の鏡を水中に落してしまった。水底を探し尋ねたが、その中に暴風雨となってついに発見することが出来なかった。
 その後手白姫は都にかえり継体天皇の皇后となった。鏡をおとした湧水は、鏡浄呂(きようしようろ)池となづけ、姫の命によって鏡浄呂弁財天をを祀った。その後、白河天皇の御代に村長の芦田基氏という人が早朝弁財天に参詣したところ、社木の樫の木に向って神気が立ちのぼり、その中に姫の姿が現われて、私は先年ここで鏡を失ったので、魂はまだここにとどまっている。手の業を望むものや手の病気を患うものは来てたのむがよい。というお告げがあった。」というのである。
 これが手白神社縁起である。手白香皇女は、この伝えにあるとおり継体天皇の皇后で、欽明天皇の母である。古事記によると、武烈天皇がなくなったとき、日嗣をうける皇子が絶えてしまっていた。そこで応神天皇の五世の孫に当る哀本杼(おほど)命が近江にいたのでこれを招き、手白髪(たしらが)命にめあわせ天の下を授け奉った。継体天皇は皇位につく前は越前にもおり、尾張や近江の地方に大きな勢力をもっていた。天皇の后妃は、この地方の豪族の子女が多い。天皇はこれらの豪族を統率支配していたものらしい。ところで、手白髪(たしらが)命が皇后となったのは天皇が大和の王座についてからのことである。天皇が即位前地方にあって、その地の豪族の子女を王妃とした頃の皇后なら、その地方の伝説が流れて武蔵国まで伝わるという筋も考えられるが、何としても手白髪命の出現は唐突の感が強い。どうしてこの名が吉田に伝ったのか理解に苦しむわけである。只然し天皇在野中に何人かの豪族の子女と結婚された。いろいろのエピソードが生れたことだろう。その記憶が伝わり、その娘達の名は忘れられて、皇后という地位にあることから、手白髪命の名だけのこり、その名が他の娘たちの名を代表したと考えればそれでも筋はとおる。然し継体天皇と武蔵国との関係が出て来ないので、この伝説の発想に焦点が見出せないのである。
 別の角度から考えてみよう。手白(てじろ)によく似た地名に田代(たしろ)がある。近いところでは越生町のもとの古池村に小字田代がある。田代は近世の書物では、単に「耕地」という意味に用いられているが、元来はその文字が示しているように、代(しろ)は「その用とするもの、材料、もと」の意味で、水田の用に供することの出来る土地、水田適地の意味である。古い文書に「開田三十町未開田代四百七十町」などと書いたものが残っているという。要するに開けば水田と成るべき地のことである。その田代は今は開かれて村里の名になって残っている。
 手白香姫が鏡を落した清水は、この谷に水田を開くに充分の条件を与えていた。即ちここは田代であった。開かれて「たしろ」と呼ばれていた。田代が単なる耕地の意味に用いられるようになると、たしろのもとの意味は忘れられて、人々はこの地名に何か特別の説明を求めるようになる。その頃、神官か僧侶か、村の有識者の中に、記紀の内容に通ずるものがあって、手白髪(たしらが)姫に結びつけたのではないだろうか。古い風土記などによってもよくわかるように、神社とか地名とかのおこりを、誰か高貴の人に結びつけて説明しそれに満足したと思われるものが多い。これは日本人に共通の心理構造だったのである。
 長竹(ながたけ) 竹のついた地名は割合に多い。竹の花や竹の内については別に書いた。その他、志賀に本竹、遠山に平竹がある。いづれもその起因が分らない。「多分長い竹でも出たのであろう」という程度である。
 ところで私たちの古い時代の生活環境を顧ると、竹の効用はまことに広い。建設土木、日用器具から薬用、食用にまで及んでいる。今その例をひろって見ると、建築土木の方面では屋根には欠くことが出来ない。又、小舞、床、縁床柱、垣、柵、樋などにも用いられ、堰、砂止め、蛇籠など農業土木上、重要な資材である。日用器具の類は、竹籠、ざる、竹行李、すだれから、扇や、うちわの骨、傘の骨や柄、箴(おさ)、柄杓(ひしやく)、竹箸、竹串等とても数え上げられない。又、武士の生活には竹刀、竹胴、弓矢、竹槍があり、尺八、笛、笙など趣味や娯楽に関するもの、果ては筍のごとく広く食用として珍重し、又、竹の皮を黒焼きにして、血止、腹痛、打傷などの薬に用いたという。現在のような、化学合成資材の全くなかった時代には、竹は人間の生活を支えるまことに大切な資材の一つであった。とくに自給自足をたてまえとする農村では、まことに大切な不可欠の資材といってよい。それで私たちの祖先はこれを必ず屋敷の周囲に植えた。今でも村の古い家ではその屋敷の一隅に必ず竹籔がある。他郷に出たり、病疫のため絶家となった屋敷のあとは、竹籔だけがその名残りとして残っている。地震の時は、竹籔ににげろといい、竹の花が咲くと米が不作だという、竹の実をとって飢を凌いだという話もある。竹は人の住むところに必ずあった。従って竹や竹籔そのものについて格別奇異の眼を向けるということは起らない。どこにも誰にもあるものである。人は自己にはない異常なもの、異質のものに対して、好奇の眼をむける。一般的通常的のものであっても、それが並一般とちがって桁はづれであるという場合、これ又、著しい関心の的となる。自己を基準にしてその並々ならぬ点ががよく理解出来るからである。越畑に大槻という地名があり、千手堂に樫の木があり、鎌形に大けやきの家号がある。一桁違ったものに対する関心から出たものである。
 竹は前記のような実用的価値から家の周囲に植えられた。又、外敵の目を遮るために河岸や、道路の側に仕立てられた。長竹はこのような竹籔が延々と長く続いていて、とくに人目をひいたのであろう。そしてそのような規模の竹籔を控えた地区には、少くともその地区の有力者実力者が居住したにちがいない。人家の密集があったにちがいない。そのようなことが、この地名の原因であろうと想像する。志賀の本竹、遠山の平竹も、その竹籔について、そのように呼ばれる特別の理由のあったものと思われる。
 法蔵谷(ほうぞうやつ) もと専蔵院のあった場所である。法蔵は経文をおさめるくら、即ち経蔵であり、又転じて仏の教法そのものをいう。専蔵院は新義真言宗で、峰、手白、五竜の三社を支配していた。この寺は焼失して現在はないが、この辺には昔、相当の家々があったらしい。板碑も発見されるという。ところが勝田村に、宝蔵山、正福寺がある。専蔵院は田中姓だというが、現在吉田には田中姓がなく、勝田に田中姓が多い。この辺の関係がわからない。
 長おね 尾根の地名は古里村でとり上ぐべきであった。然し各村にこの名があるので、ここで説明することにする。尾根とは山の頂線のことであることは説明を要しない。そんならその山の頂線をなぜ、おねといったかという所がここの問題点である。おねは、うねの転化である。畠にうねを作るそのうねと山の背、峯通りの形との共通性からうねといい、おねに転化したのである。但し後には、峯通りとは限らず、広く高処をさして、うねといった場合もあるようだから、おねの地形が必ずしも、山の頂線をなしていない場合も出てくる。長をねもその例である。
 吉田村にはこの外におなかた、亀井作、京五、くつかた、高たう、みようが、よふさたなど興味をそそる地名があるがこれも他日に譲ることにする。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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