ページの先頭

第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

四、村の地名

第5節:特殊な地名

制度法制にもとづくもの

▽石代・野銭場

 鎌形にある地名で、水田地帯であり両者とも年貢に関係した地名である。江戸時代、田畑の年貢は米で納めるのが原則であったが、米の代りに貨幣で納付することを石代納といった。この収納法が行なわれたのは、交通が不便で、粗米の運搬が困難であるとか、田が少くて租米に不足があるとか、関東地方のように米の収穫前に夏成(なつなり)といって畑年貢を徴収するためとか、種々の理由があったようである。石代納の方法は関東の夏成では二石五斗代といって米二石五斗につき永一貫文、関西では、三分の一銀納、全部石代納、奥羽では半石半永など各種の型があったらしい。
 そこで「石代」という名はその地区の水田の年貢を現物の代りに金で納めたから、それで地名となったのだと考えれば一番分り易い。然しこれには若干の疑問がある。先ず石代の地名は寛文八年の検地帳に載っている字名である。寛文八年(一六六八)は将軍家綱の時代であるが、この時にはすでに石代の地名が成立していたわけである。
 さて石代の制度が始ったのは、江戸時代の何時頃であるか不明である。案外早くから行なわれていたかも知れない。鎌倉室町時代には絹、布、麻、糸等の類で納める色代納という方法があり石代納はこれから出た言葉であろうというから、江戸時代も早くからこの地にこの制度があったとすれば、別に異論は出ないのである。然し石代納の理由が、交通不便のためといえば、この地域だけではない。江戸より十六里というのが大体この地方の距離である。便利とはいえないが程度問題である。米は吉見の御成河岸まで馬で運び、あとは舟運によって江戸に送ったという。交通不便はどこにも共通のことであるから、ここだけの条件にはならない。次に田が少く租米が不足であるかといえば、ここは鎌形耕地中枢部の穀取場である。水は都幾川の流水を導入して、大低の旱魃(かんばつ)にも、水の涸れることはない。次に関東の石代納は畑租の代りに採用されたとある。ここは水田地帯であるから畑租には関係ない。斯う考えてくると、どうしてこの地区が石代納になったのか分らなくなる。石代の地名は町内の他の村々にもないし、全国的にも地名辞書には見当らない。地名となるまで、こと珍らしい制度でなかったからと考えてよいであろう。何でもないあり来たりのことが、地名になったということは何か特別の理由がなければならない。これは一体何だろう。これが分らない。
 そこで試みに石代の文字と制度から離れて、全く別の角度から考えてみよう。石代は「せきだい」である。文字で書けば「関台」となる。「ダイ」という地名の語は読み方は同じでも、地方によって若干その意味が異るというが、最も普通であり又この辺でいうのは河沿いや海沿いの段丘のような上の平な高地のことである。高い平な土地のことをいい、植木山台、上の台、油免台などこの石代の付近に台の地名が多い。
 ところが寛文八年には関上という地名があり、明治の字名には消えている。然し現地には堰上の地名が現在も生きている。石代堰付近の河成段丘の部分に当っている。そこでこの関上と関台が結びつきはしないかということになる。関上の地区は地形の上から関台ともいった。関や堰より石の方が書いて簡単であるから石台(せきだい)となり、石代(こくだい)納が盛に行なわれるようになって、石台(せきだい)は「こくだい」の語に引き込まれて石代(こくだい)というようになった。こんな風に考えられるのである。現代の石代は水田地帯である。これは地名がそこまでひろがったと考えればよい。前述のようにこの辺に台の地名の多いのも、命名した人達の癖を見ることが出来ると思う。
 野銭場はそのものズバリ、野銭を納める場所である。村民が入会って草を刈りその代償に若干の税を納めた。小物成といって雑税の一種である。山年貢、山小物成、山手米、野銭、野手役など、みなこの種に属する。野銭場は、寛文八年にはその地名がない。今、新田といわれる地域である。田の開かれる前から野銭場といわれていたのであろう。 野戦場と書いて、義賢の大蔵合戦に関係づけるのは、郷土の地を有名な事件や、名高い人物に結びつけようとする日本人共通の尚古精神のあらわれである。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
このページの先頭へ ▲