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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

四、村の地名

第5節:特殊な地名

信仰に関係あるもの

▽坊・堂

 寺院や山伏に関係した地名として坊や堂のつく地名が多い。坊谷(志賀)、坊の上(大蔵)、安楽坊、大田坊(広野)、新田坊(勝田)、石堂(千手堂、菅谷)、三反堂(越畑)、花見堂(勝田、川島)などその例である。
 又鎌形には桜井坊、石橋坊、平沢には、延命寺、遠堂、御山坊、下道(解道)寺、神花堂、でぢょう坊、タカン坊、知明院など、坊や堂のあったと思われる地名が数多くある、越畑の「地方」は「じぼう」と読み寺坊の意味だといわれている。坊は僧侶の住むところであり、堂は神仏を祀る建物という区別があったのであろうが、庶民の生活には、別に区別の必要はなかった。両方とも信仰上の建造物として同じように受けとめていたのである。そしてそこに住む神官や僧侶にしても、現在のように神と仏とにハッキリと分れていたものばかりではなく、神にも仕え、仏をも拝むというたぐいの人達も相当あったのではないだろうか。つまり修験者、御師、先達というような人たちが、この坊や堂に住んでいたものと思われる。「風土記稿」により嵐山町の社寺だけについて見ても、鎌形八幡社の別当は、大行院といい、本山派の修験、幸手不動院の配下とあり、鎌形山真福寺と号すとある。桜井坊も石橋坊も同じ不動院の配下で本山派修験である。
 杉山村大蔵院は、板井村(いたいむら)、長命寺(ちょうめいじ)の配下で、本山派修験、不動尊を安置。
 広野村泉覚院も本山修験、長命寺配下、本尊は不動。平沢は別掲の通り。
とあって、修験道の行者が諸方にいたことが分る。本誌ではなるべく他町村の例には触れないで、町内だけの実例によって考えをまとめることにしているのだが、ここに只一つ、羽尾村の例を借りれば、
 恒儀社の別当は、金剛院で本山修験、諏訪社はこの金剛院持、慈明院も本山修験で松山観音寺配下、愛宕御嶽合社はこの慈明院持、三教院は当山派の修験で江戸青山鳳閣寺の配下であると記してある。山伏が地方の部落に定着し、村民の生活に様々の影響を与えていたことが想像出来る。事実この人たちは一面には、仏教の経典に親んで加持祈禱(かじきとう)により人々の信頼を集め、又深山を跋渉(ばっしょう)し清浄な山の霊気を身にうけて、魔性の怪物をも調伏する力をもつものとして畏敬されていたのである。だからこれが村落に定住するようになると、必然的に村の有力な指導者に押し上げられた。その結果本来の仕事を超えて、村の紛争調停を頼まれたり、仕事の成否について相談をもちかけられたり、子供の名付親にされたりして、それに応えるようにまでなった。
 このように修験者が、民間の生活にとけこんでくると、前掲のような修験教派組織に正式に編入され登録されているものの外に、いはばフリーの準山伏的な人たちも現われて来た。これらの一族とか子弟とかいうものが増加することも考えられる。この人たちが住んでいたところが、村々にある坊とか堂とかいうものであった。その坊や堂が目印しとなって、ここにあげたような地名が出来たのである。「法印さま」という家号をもつ家や、何々法印という法名を刻んだ墓石をしばしば見出す。法印は山伏のことである。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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