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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

四、村の地名

第2節:地名の研究

志賀村の例とその由来

 先ずはじめに掲げた志賀村の地名を手がかりとして考察を進めてみよう。志賀村の地名は寛文五年のものと、明治八、九年のものと二通りある。大部分は共通しているが、寛文のもので、明治にはないものが可成りあるので、寛文の地名を対象にする。古い地名の方がより古いものを伝えている筈だからである。
 先ず第一に気のつくことは「何田」という地名の多いことである。「沿革」によると、この村の明治初年の米生産額は四八二石八斗、旧菅谷村内随一で、次は鎌形村で四七四石五斗。小川村へ輸出している。年貢米の高も一三五石六斗九升(鎌形村九一石八斗八升)、寛文の田面積三七町(鎌形村一八・三町)でいづれも首位を占めている。志賀村に「何田」という地名の多いのは、耕地の広さや、米の生産額と相俟って村民の生産生活が、より多く米作の面に関係づけられていたからであろう。さてその田の名を見ると、

(1) 壱丁田 五反田 三反田(面積)
(2) 岡田 久保田 高田(地形)
(3) 柿ノ木田 梨ノ木田(地物)
(4) 下田       (位置)
(5) 丸田       (形状)
(6) 宮田       (使途)
(7) 金子田 焼米田 瀉田 山森田(やまもりでん) 船頭田(その他)

となっている。どんなわけでこれらの名が出来たのか、それを考えながら似ているものを集めて、分類して見ると、大体括弧内のようなことが、命名のもとらしいということが分る。そこでこれらの田の名前の意味を考えてみよう。

(1) 面積をもとにしてつけた名前

 これは谷の出口などに山水を利用した水田の小集団が出来て、その小集団の面積をもとにしてつけた名前である。
壱丁田は壱町歩、五反田は五反歩の田が開かれ、その時にその面積に応じて呼んだことから起った名であると思う。一説には一筆の大きさが三反歩、あるいは五反歩あり、一世帯毎にこの三反歩、五反歩ずつを分配した。その配分の仕方が地名なった例もあるという。然しこれは志賀村の場合は当らない。この名前のついている地域は一世帯当り三反とか五反とか、まして一町という大きい面積の田を分ける程の極めて広大な耕地集団ではないからである。「沿革」に「壱町田 旧字壱町田、段別二八四畝一一 筆数三九」とあることによっても知られる。これと同じ地名は他の村々にもその例がある。

 壱町田(将軍沢、吉田)
 五反田(吉田)
 三反田(将軍沢、吉田)
 六反田(吉田)
 八反田(将軍沢、吉田)

等がこれである。いづれも、一筆、三反、五反という大区画の田圃の地域ではない。とくに気のつくことは、この名が志賀、将軍沢、吉田に限られていることである。(他にもあるかもしれぬが現在の資料による)この三村は共通して、いわゆる谷(やつ)が多い。吉田の如きは九十九谷という位である。それでこの一谷(ひとやつ)の田の面積をもとにしてこの名がつけられたものと思われるから、はじめいったように、一定の田地の小集団の面積をもとにしてつけた名であると考えてよいであろう。さてこの一谷(ひとやつ)一谷の地名が右【上】のようにして生れたとすれば、この地名の起った時期、つまり開墾の行なわれたのはいつの頃だったのだろうか。これは水田としては比較的後世のものと思われる。面積が明らかであるということは、開発が計画的に企てられたものであることを示している。荘園の領主とか地方の豪族とかいうような人が開発主となって開田したものであろう。田畑の面積が一筆毎に明らかにされたのは太閤検地からである。この地名は案外新らしいのかもしれない。

(2) 地形によって命名したもの

 岡田は岡の周辺の高い場所、高田(千手堂村にもある)も同様であり、久保田はくぼんたところにある田の意味でこれが地名となったのであろう。岡田は笹山の一部で、現在の八宮神社周辺であるから、岡田と呼ぶにふさわしい地形の場所である。おか田は杉山村にもある。杉山ではこの地名は現在忘れられているが、おそらく志賀村と同じような地形にあった田圃の地域であったと思われる。久保田については別に述べる。地名はどこへいっても、先ず地形によってつけるのが普通である。誰にも分り易く納得が早いからである。そして日本人は米作を一番大切な仕事として来たので、その米を作る土地によって地名を呼ぶというのが自然の気持であった。だから地形と田を組み合わせた地名は一番その数が多い。そしてこの地名は私たちにとっても極めて分り易いのである。

(3) 地物によったもの

 柿の木田、梨の木田、梅の木田は、目印しとなるような地物があって、この目印しが地名にひろがった例である。柿の木や栗の木や梅の木の値打ちは現今の若い人達には分らない。私たちの農村でも季節の区別なしにバナナも、蜜柑も、林檎も思いのまま手に入る。アイスクリームもチョコレートも、何々ジュースも店頭に溢れている。子供達は柿の実を忘れている。熟した柿がいたづらに、もずや、からすの好餌となっている。栗が笑んで落ちていても、これを拾うことを知らない。石くれと同一視している。然し二十数年前の終戦前後のことを思いおこすと、柿一箇、栗や梅の実の貴さが、痛苦の思い出につながる。まあそれはとも角、砂糖のなかった時代は、柿は甘味の大宗であった。すべて果物は今の名店街の名菓以上の珍品であった。だから柿の木や、梅の木に、里人が着目していたのは当然である。而もこれ等の果樹の、花の蕾から、満開の花、小さな実が成長し、生熟して行く過程に、人々は、季節の変化を悟り、これを目印しとして、種蒔きや、とり入れの段取りをすすめ、年中行事の準備に余念がなかった。柿の木や梅の木やその他の果樹は貴重な財産として珍重された。それ故に、この木を名として田の名が呼ばれたのであろうが、さらに考えれば、このような果樹は珍重せられただけに、どこの家にもその屋敷の周辺に数本宛は植えてあった。特定の家の独占ではなかった。いわば随所に見られるものであった。だから柿の木田といっても、他から区別出来る特色を明示するとは限らない。柿の木は随所にあるわけである。それにもかかわらず、ここに柿の木田、梅の木田という地名が個有名詞として村民の共感と同意を得て成立したということは、この柿の木、梅の木が、特に他と異った特色を備えていたからにちがいない。それは例えば、その柿の木が目を見張るような大木であったとか、神秘な伝説に包まれた古木であったとか、乃至はこの柿の木の所有者が、土地の実力者、権力者であったとか、いうことではあるまいか。由来日本人は古木を尊ぶ心情が強かった。木によって地名としたものが各地にある。木の下(志、遠)木の宮(鎌、大)樫の木(千)えの木町(吉)えの木田(杉)大木・大槻(越)柏木(古)はこの類である。千手堂の川枝はもと「大柿」といった。瀬山光太郎氏の田に古い渋柿の大木があったからである。大柿といえば誰でもその地名を知っていた。

(4) 位置によったもの

 これはその村の上手であるとか、下手であるとかによってつけた名前である。ここでは下田となっている。下田は東町裏の一部の旧字名であるから、志賀村全体から見ると必ずしも「下(しも)」といふ言葉は当らないようであるが、その「上手(かみて)」に仲町という地名があるから、当時は、「下(しも)」と考えられていたものと思われる。「上下(かみ、しも)」は山の上下(うえした)とは異って、一定のきまりに従っている。「上(かみ)」は方位では、西から北、「下(しも)」は東から南である。都が京都にあったので西の方が「上(かみ)」であるという説も一応当てはまらないこともないが、現在、東京に向って嵐山駅の上りは池袋行きであり、下りは寄居行きである。然し「上(かみ)」「下(しも)」は昔のままで改まらない。大体に於て、私たちの村は西の方が山で、東から南にかけて、土地が広く開けている。それで川の水はすべて東・南の方角に向って流れている。この川の「上下(かみしも)」によって、「上(かみ)」、「下(しも)」の観念が固定して来たものと思われる。私たちはどこの村にいっても、上郷といえばどの辺を指し、上組といえばどの辺の家々であるかということが分るのである。東南に向って川が流れているということさえ忘れなければ、誰にも分ることなのである。
 この「上」「下」を田に結びつけたものでは、上耕地(古)下耕地(古、勝)しも田(杉)上田(杉)などがある。これはあまり例が多くない。この名が少いのは普通名詞の上、下だけでは、適確に地区を指示することが出来にくいので、他の名がこれに代ったか、又は、ただ総括的な呼び名に止ったためであろう。どちらかといえば多分数ヶ所の地名を一括して、上耕地、下田などと、いい習らわしたものだろうと思う。それでこの地名は新らしい部に属すると思われるわけである。一般に方位、上下、大小、新古などの区別によって、分割したり合併したりする地名は新らしいものと見られている。

(5) 形状によったもの

 丸田は丸い形の田があったので生れた地名であろう。これも直截(ちょくさい)で明瞭である。といっても丸い田というのは人々の注意を喚起(かんき)するのに充分の理由がある。元来、田や畑は正しい四角形が理想である。三角の(つの)っと畑や不整形の田は作業や収穫に不利の点が多い。丸い田や南北にばかり細長い田は、例が多くない。そのために却って人目について地名に用いられたのであろう。この類のものとしは長田(杉)、ほそ田(杉)がある。

(6) 使途によったもの

 その田からとれた米を特別の用に供したために、そのつかいみちにもとづいて生れた地名である。宮田といえばこれも極めて分り易い。その田の米を村の神社に奉献したのである。志賀村の宮田の位置は不明である。吉田、杉山にも宮田がある。宮田はお宮のそばにあるのでその名が起ったのではないかという考え方も浮かぶ。然しお宮の近くの田の場合は、そのお宮を中心として宮の前(志、遠)宮の脇(志)宮下(鎌、吉)などの地名が別に出来ている。又本村だけでなく他の地方でも、宮田といえば神社に属する田で、祭り田、ウブスナ田などと呼んでいる場合もある。いづれも神饌用の米を収穫する田である。古くから神田ともいわれていた。(古里の神伝田もこの種のものかもしれない。)村人の共同開墾によって成立したものもあろうし、有志の寄進によったもの、又ある一族の氏神が村の鎮守に発展した場合は、その一族の私有地が寄付され、宮田として村の公共用地になったのもある。宮田も矢張りこの種のもので使用の目的をとらえてつけた名前であるとしておきたい。この種の地名には何々免(面)と称するものが数多ある。これは後に触れることにする。

(7) その他のもの

 このグループは、命名の理由がハッキリ分らない。然し先人の研究に従って、そのいわれを追求していけば「全くわからない」といって、投げ出さないでもすみそうである。一つ宛考えてみよう。

▽金子田
 金子田の金子は、金工のことであるという見方がある。諸国に金子屋敷という地名がある。これはタタラ師、つまり金工の住所のあとだというのである。タタラは一応フイゴのことと考えてよいから、タタラ師はフイゴを使って仕事をする人、早くいえばカジヤである。金子はカジヤの意味である。カナイゴという神様と、カナイゴという地名がある。カナイゴはタタラ師の別名である。カナイゴはカジヤの住んだところ、金鋳護(かないご)の神はその守護神である。そしてこのカナイゴという言葉は、カネイゴ、カネコという具合にいかにもよく似ているわけである。これが金子はカナイゴ、つまり金工のことであるという見方の筋である。
 カネイ場という地名も各地にあって、これは昔、カネを鋳た場所だという伝えが残っているから、その事実が各地に存在したことが知られるわけである。
 それでこの金子田も、カジヤの作業場があって、その近辺の田につけた名前であろうということになる。志賀村にはカネを鋳たという伝えはない。然しそれは土地の人たちが忘れてしまったのであって、カジヤが仕事をしていたという事実は存在したと思ってよい。そのわけは平沢には金クソ、将軍沢は金糞谷、勝田と広野には金塚などがあって同じように本町内にカジヤに関係ある地名が沢山あるからである。
 金糞は仕事の後に堆積した金糞から出た名であるし、金塚は鋳物師はどういうわけか塚を根拠として仕事をした。それで、その住居を金塚、金井塚といって塚をつけて呼んだという。こう考えてくると志賀の金平、平沢の金井、鎌形の兼ヶ谷戸、吉田、杉山の金山などもこの金工に関係した地名かもしれないという想像が浮かぶ。尚カネイ塚は庚申塚のことだろうという説もあるが、庚申はカノエサルであるからこれを単に庚(カノエ)という筈はない。又、私たちの舌では、カナイ、カネイはカノエに近く発音される。イをエに訛るからである。だから、カネイ塚を庚申塚と考えるのは無理であるという考え方をつけ加えておく。

▽焼米田
 焼米は田の神に捧げる供物である。苗代の水口祭と収穫の刈掛祭とにこれを供えた。水口祭には種籾の残りを煎って供え、残りはトリノクチ、カラスの焼米などといって害鳥が苗代を荒さぬように、田の近辺にまいてついばむにまかせた。又、村の子供たちに与えたり、子供たちは、水口の供物をとって「やき米くれせえ鳥追うベイ」などと唱えて田のあぜを廻り歩いたという。又刈掛米は新籾を焼いて作り、神仏に供えたり互に贈答したりした。落城伝説にともなって焼米が出るのはこれ等の焼米供物の信仰のあったところだという。志賀村にこのような焼米の祭りがあったか否かは伝っていない。然し、一応この焼米祭りの用に供する田によって生れた地名であるか、又は、落城伝説のように古い昔の焼米祭りの焼米が出たので、その名が出来たものででもあろうということにしておく。

▽瀉田
 瀉田は浮田ではないかと思う。ドブのことを昔の言葉ではウキといった。浮田というのはドブ田、つまり泥深い田のことである。ドブ田は誰にも分り易い地形、地質なので、地名となり易い。
▽山森田は山守田、山盛田などと書いて見ると何かわかりそうな気がする。(塚の項参照)船頭田は船頭の費用に充てた田であろう。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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