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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

三、村の生活(その二)

第9節:鎮守様と共同体制

村の産神

 そこで、先ず淡洲明神社と八幡社が「村の産神」と記された理由にうつろう。産神(うぶがみ)というのは、妊産婦や生児を守る神であるといわれている。前にのべた産土神と何か関係がありそうな予感があるが、今のところこの両者の関係は学問上明らかにされていないという。
 然し私たちは、「風土記稿」の産神は産土神の意味に使われていると考えたい。つまり、それぞれ太郎丸地区と鎌形地区の地元の神であったと考えるわけである。
 これは太郎丸の場合を考えると分り易い。太郎丸村は、水房村の一部であった。寛文五年(1665)の検地の時独立して太郎丸村となった。水房村とは本郷枝郷の関係にある。それで太郎丸村の鎮守様は水房村の淡洲明神社であった。昭和の初頃までその祭典に参加していたという。「風土記稿」で、太郎丸村の淡洲明神社を「村の鎮守」と書かなかった理由もこれで分る。鎮守ではないが、太郎丸の地域には、その地元の神様があった。つまり産土神である。枝郷として独立はしたけれど、地元の神は、しばらくの間鎮守の地位を得ることが出来なかった。本村の鎮守の勢が強かったからである。然し地元の神であるから、これを全く無視することも出来ない。然るべき処遇が必要である。それで本村の淡洲明神の名を分けて、同じく淡洲明神社と呼び、地元の神としての地位を保証したということになると思う。だから「村の産神」のあるのは「村の産土神」の意味であると思われるのである。
 鎌形八幡社の場合も考え方は同じであるが、鎮守神と産土神の関係が逆にいった例で、八幡社は、鎌形郷田黒村玉州郷などの産土神であった。八幡社はその社伝にあるように古い経歴の神であるから、その勢力は相当広い地域に及んでいたと考えてよい。つまり、鎌形、田黒、玉川などの地域がそれであって、八幡社はこの地域の産土神であったのであろう。
 ところが、その後村の境域が確定してくるに従って、田黒村にも玉川郷にも村の鎮守が出来た。田黒村は山王社、玉川郷は春日社を村の鎮守なりと「風土記稿」に書いてある。八幡社は地元の有力な神であるから当然鎌形村の鎮守である。
 以上のように、「産神」というのは「産土神」の意味であると解釈しておこう。尚、淡洲明神社は安産の神であると考えられているが、これは「産神」という言葉とは関係なしに、祭神が「速御玉姫命(はやみたまひめ)」という女性の神名に関して後世におこった信仰であると思う。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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