ページの先頭

第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

三、村の生活(その二)

第6節:村の家々とその盛衰

重兵衛の家庭

 元禄十五年(1702)、広野村名主重兵衛は五九才を迎えた。女房は同じ広野村次郎兵衛の娘で、五十六才である。重兵衛夫婦の結婚は早かった。長男の太平が生れたのは三十八年前、重兵衛二十二才、女房さまは十九才の時である。この年太平はすでに分別盛りの三十八才になっている。凡そ二十年前に志賀村十左衛門の娘を太平の嫁にとり、その間に、七之助(17)とよ(14)ゆら(9)久蔵(6)四郎(?)の五人の孫が生れた。重兵衛の家族は以上の九名の親族であるがその外に、大蔵村から下男権兵衛村内から下女しま、勝田村から下女かめの三名が雇われていた。合計十二名の大世帯である。家族の顔触れを見ると重兵衛はじめ皆働き盛りであり、孫の中でも七之助と、とよは、もう一人前の働き手と見てよいから、大体一人前の大人が九名揃っていることになる。重兵衛の経営は、この稼動力に匹敵した大規模のものであったと思われる。尤も名主重兵衛の労働力は大部分村の仕事のために注がれたと見なければならない。重兵衛には太平の外に娘なんとおらの二人がある。いずれも隣村の杉山村と、太郎丸村に縁付いている。健全な家庭というべきである。
 それから九年経過した宝永八年(1711)の重兵衛の家庭をのぞいてみよう。この時には家督はすでに太平に譲られて、太平が「宗門政帳」の筆頭に立ち、重兵衛には父と肩書し、さまは母と書いてあるだけである。「宗門改帳」は太平を標準にして、これと各人の家族関係が肩書きされている。子供の七之助は改名して伝平となり、年は二十六才になった。女子きわは勝田村に縁付いた。両親は六十八才と六十五才になったので、稍々体力は衰えたろうが、達者な百姓は六十過ぎても、まだ若い者には負けないぞと自負し且つ長年の経験も役立っので、本当に、二十才前後の若者では及ばない労働力をもつことがある。とすれば二夫婦揃った上に下男一人下女二人を加えて太平の農業経営は、九年前に引続いて同じように隆盛であった。宝永八年より三年後の正徳四年の「宗門改帳」には、その末尾に「名主太平」と署名があるので、家督相続と共に名主の地位も、太平に引継がれたと考えてよい。太平の仕事も大体村のために割かれたと考えてよいが、それにしても大百姓たる地位はゆるがない。杉山村と太郎丸村には妹の「おな」と「おら」が嫁いでいる。「おな」「おら」とは今から考えると妙な名前である。前表により「おな」は、「なん」であり、「おら」は「らん」であることが分る。「おなん」「おらん」と呼び上の「お」を残して下の「ん」を略したのである。
 この頃の「宗門改帳」では、女の名前に無関心であった。つまり村人の生活にとって女の個々の名前というものはそれ程重要なことではなかったのである。村の成員は各家々の家族の一人一人ではなく、家そのものが、村の成員となっていたからである。村は家々が単位となって成立していたからである。だから家を代表する当主である「重兵衛」「太平」の名は絶対に欠くことは出来ないが、これさえあれば他の者の名は必ずしも必要としなかった。「宗門改帳」には母とか、妹とか、女とかだけ書いて名前をかいていないものがしばしばある。一族の中に女の子が二人以上あると、その区別をするために「はる」「なつ」「あき」というような、生れた季節に応じて名をつけたり、「いぬ」とか「とら」とかいうように生れた年にちなんで呼ぶ慣習が多かった。一人娘の時は名前がなくて「アネ」で通ってしまうこともあった。これらはまったく内輪(うちわ)の符牒(ふちょう)で、甲乙の区別がついて、その人間を指示出来ればよいというのが通念であった。だから、「おなん」が「おな」になり「おらん」が「おら」になっても一向不思議ではなかった。男の子は、将来村や社会に出て働き、他人とのまじわりも予期されるので、女の子よりはその命名に注意したようであるが、それでも、幼名はそれ程重んぜられなかったようである。成人すると改名するものが多く、又女の子と同じように名はつけても、その名を呼ばず「ヤッコ」「ヤッコ」と家庭で呼び慣れ、そのため成人して後まで、通称「ヤッコ」さんで通った例なども見えるのである。
 次には五年後の正徳六年(1716)の状況をみよう。当主は太平で五十二才、名主役をつとめている。然しこの五年の間に太平の身辺には二つの大きな不幸が見舞った。一つは母を失ったことであり、もう一つは妻に死なれたことである。何が死因であるか「宗門改帳」からは引き出せないが、とに角、宝永八年(1711)には「太平女房(43)志ヶ村十左衛門娘」とあるが正徳六年(1716)には「女房(40)杉山村万右衛門姉」となっている。これは明らかに後添えである。一家には二代三代と続く中、思わぬ不幸が訪れるものである。正徳六年の「宗門改帳」は太平一家の危機を物語っている。たとへ元気だといっても父重兵衛は七十三で、寄る年波には勝てないし、男子伝平は三十一才でまだ女房を迎えない。女子まちは杉山村に嫁し、他に男子円刹(20)○六(12)があるだけである。太平一家には何か暗い影がつきまとっているようである。それかあらぬか、男子の円刹は仏門に入って、広正寺の弟子になっていると書いてある。この男子円刹と○六は、宝永八年には記載がない。然し元禄十五年の久蔵(6)、四郎(?)がこれに当るものと思う。元禄が十四年たっているから夫々二十才と十六才になるわけである。杉山村に嫁した女子まち(23)は元禄の「ゆら」であろう。これも年令が一致する。宝永八年の勝田村に縁付いたという女子「きわ」は記載がない。そして妹の「おな」と「おら」は相変らず明記してある。このような「宗門改帳」記載事項の不一致は、何が理由であるか分らない。又、「とよ」が「きわ」になり「ゆら」が「きち」になり、女子の名が、手軽に容易にかえられた例証が現われている。この中にも太平の農業経営は、下男一、下女二の雇人によって続けられた。
 かくして十五年を経て太平の家庭はどのように変ったであろうか、享保十六年(1731)の「宗門改帳」は次のことを物語っている。
 太平の子伝平は、親のあとを承けて、太兵衛と改名した。父太平は七十一。母は死亡している。当主太兵衛は四十六である。谷口村から娶った女房ぎんは二十九才であるから、十七才の年令の差があった。これと太兵衛(伝平)が三十一才の時独身であった理由とは知る由もないが、当時の農村は今日と比べれば早婚であったし、ことに父太平の結婚は早かったので異例の感が深い。太兵衛の身辺にも何か特別の事情が起ったのであったかもしれない。晩婚のため子供は松之助(5)と女子(2)だけ。広正寺に弟子入りした円刹は、長危と改名して越畑宝薬寺の住職に移った。○六は重兵衛と名を改めて、江戸に出て小石川伝通院前に住居している。職業は不明である。従って同居の家族は大人三人、子供二人でまことに手薄である。
 そして下男三人、下女二人という多数の雇人の名が出てくるのである。太兵衛が名主役であったかどうか、「宗門政帳」に村役人名の記載がないので、ハッキリはしないが、この村では(島田氏支配下)名主を世襲していたようであるから、太兵衛も名主であったと考えてよい。それから四年たった享保二十年には、男子久太郎が生れているだけで、家族には前と変りがない。雇人は相変らず、下男二人、下女二人で、その数は多い。この家の補充労働力は、通常は耕作に男女各一名、家事使い走りに小女一名というところらしい。家族の労働力はまだ不足である。子供達の成長がたのしみである。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
このページの先頭へ ▲