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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

三、村の生活(その二)

第5節:入会山

入会山の利用

 入会山野の利用の状況について江戸時代の記録は見当らない。然しこれも極く近い頃までの共有地の利用の仕方や、農家の燃料、田畑の肥料などの話をきくと、そこには矢張り昔からの慣習が残っており、それをたぐって江戸時代の実情を再現することが出来る。
 例えば遠山では、明治になってから払下げをうけた共有の原野があって、はじめ二十二名でもっていた。二十二名といえば遠山の大部分の農家である。これを雑木山に仕立てて、薪炭材は業者に売却し、その売上金を分配した。これは昔は、共同で自家の薪や草をとった習慣の名残りである。又、萱とがあってこの萱刈は十二月の農休みに、共同作業で行ない、希望者に入札で売り渡した。萱は屋根葺に使ったのである。入会地の萱をとって、屋根を葺いて来た名残りである。瓦や小麦からの屋根が多くなり、必ずしも萱を必要としなくなったからである。(高橋与平氏談)
 川島にも払下げの雑木林がある。ここから薪をとって、字の集会場や公民館の燃料としている。薪取りは字民の共同作業で行なった。これも払下げ地が、村の総有地であった名残りである。共有地は最近になって他に売却されたり、個々人に分割されたりして今残っているものは少い。鎌形の大ヶ谷原も、かやと秣場というのがあり、萱を刈って屋根葺の料料にした。夏は草刈りをした。誰がいってもよく制限はなかった。馬草(まぐさ)には大ヶ谷に行くというのが鎌形村民の相言葉であった。今は個人所有になっているが、右【上】のような記憶を簾藤惣次郎氏が語ってくれた。
 雑木は燃料、萱は屋根に、下草や落葉は肥料にという利用の仕方が一般的であったようだ。農家の燃料も一変した。プロパンガスや石油や電気を使うようになり、炊事や暖房や風呂まで、最近は、薪や、枝をたく家は少くなったが、明治から大正の頃は、相当の大尽(だいじん)でも堅木(かたぎ)の薪(まき)を燃すことはなかった。松まきが普通であった。やくざの刈抜きボヤを九尺二間の木小屋一杯に積んでおいて、これを一年間の燃料にあてるのが通例であった。松の落葉を掃いてきて燃料とした。子供とも八人位の家庭で、年間の燃料は薪 一五〇把、枝二〇〇把、その他に下屑を補充に必要とした。そこで山のない人達は手間で落葉を掃かせて貰ったり、ボヤはボヤ刈りをして地主と半々に分けたりした。大体一家当り年間一反歩の山が必要であった。十五年毎に伐採するとして、一町五反が必要ということになる。実際は抜き伐りなどをするから一町程度あれば間に合う勘定であった。以上は委員(小林文吉、田中勝三、萩山忠治、小林恒治)の説明を綜合したものである。江戸時代は大体これを入会地から採取したのである。入会地は百姓の生活に大きく密着していたことが分る。
 小林文吉氏の話によると明治の末頃まで、精根のよい人は殆んど刈草と落葉だけで田畑を作ったという。鎌で削るようにしてまで、草を刈ったのである。苗代は短冊にきり、その中へ落葉を押し切りで切って、手で突き込んだ。尤もこれが多すぎると苗代でいぶったという。田中勝三氏の記憶にも、藤葉を苗代に使う家が沢山あったという。一畝に大籠で、五籠から六籠位、掻いた下へ突込むのである。又山草は、積草にした。小枝なども一緒に積込んでおき、積みかえすと枝はやけてボロボロになっている。これを除くと良質の肥料になった。田や、麦のひき肥などに使った。朝草を刈るものでなければ「しんしょう」は持てないといっていた。金肥を殆んど使はなかった時代では、落葉や芝草は不可欠の肥料源であったのである。山林原野はこのように、百姓の日常生活農耕生活の上に必要な物資を供給する不可欠の大切な場所であった。この山林原野が入会地であったのである。入会地は村民全体の総有で、村民なら誰でも利用出来る土地であった。村の性格が入会地に反映して管理や利用の方式が出来上った。そして入会地の運営を中心にして村の共同体制が保たれていったのである。入会地は村という共同体の物、心両面の基盤となっていた。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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