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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

三、村の生活(その二)

第4節:部屋の呼び方と使い方

間取り

 次頁の図は初雁喜一氏の母家の間取りである。この地方で最も普通の型である。とぼ口(入口)をあけると、ここは土間になっている。台所といっている。家の中は大体土間の部分と、床のある部分とに左右に別れその比率は、床張りの分と土間とが半々位になっている。家屋は大てい南面しているので土間が右(東)床張りが(西)になっているが、地形や道路の関係から左住居(ひだりずまい)といってその反対になっている場合もある。

 委員の話をまとめると土間の部分は総括的に台所といっており、その一部に、馬屋、へっつい、流し、湯殿などがあり、とぼ口に相対してせど口がある。そしてせど口の右、馬屋の後側におかんまやがある。台所の一部に厩を設けたのは、家人が馬の世話をするのに都合よくしたのであって、とくに主人の座席からいつでも目の届くように配慮してある。馬は農家にとって大切な労働力であり、それだけに重要な財産と考えられていた。この厩の近くに風呂場がつくられているのが常であった。風呂の水を厩にまいて、踏藁を早く腐らせて肥料を作るためであった。尤も完全で固定した風呂場を設備した家は少く、夏は外に風呂桶を出して野風呂にしたり、寒い時はその都度台所の一部を転々と利用したものが多かった。それでも風呂のあるのはよい方で半分位は貰い風呂ですましたものである。(田中勝三氏談)おかんまやの意味は解らない。味噌、つけものなどをおく場所である。その外にかまどと流しがある。このように台所は主として家の日常生活を営む場所として用意されたものである。
 床を張った部分は大体四つの座敷に区切られている。田の字型になっている。サの字型で六つの部屋になったもの、(次頁船戸氏居宅参照)田の字の外に附属した部屋をもつものもあるが、根幹は田の字型であって、これが間取りの基本的な形になっている。この四つは、とぼ口を入った左手の部屋をざしき、ざしきの北が茶の間、ざしきの西がでい、でいの北がへやである。大ていこの名前で呼ばれている。土間から、ざしきに上(あが)る所に「上りはな」といって、板敷を作ってある家もある。大黒柱はざしきと茶の間との境で土間に接して立っている。茶の間の土間に降る辺りに囲炉裡が切ってある。でいには床の間がつき、へやには押入があるのが多い。以上は委員の話を綜合したものである。

船戸治夫氏居宅の間取図|スキャン画像
船戸治夫氏居宅

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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