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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

三、村の生活(その二)

第3節:家普請(三) 共同の祭典

屋敷

 家屋の建築は個人の仕事ではなく村の共同の仕事と考えられた。労力や資材の不足を補い合い融通し合って家ぶしんをした。そして一軒の家を作りあげるということは、ただ建築事業の協力というだけでなく村の共同の祭典とでも言うべき色合がこかった。
 家を立てる順序は今と変りはない。先ず屋敷を定め地鎮祭をしてから井戸を掘る。地形をする。石を並べて、土台を入れる。柱や梁や桁や母屋や合掌など、大工の仕事が出来上ると建前になる。上棟式をする。次に屋根を葺き、壁を塗り、床を張り、畳・建具が入って完成ということになる。一寸横道に入るが、屋敷を選ぶ場合も、個々人の好みだけでなく、村の慣習に従うのが常であった。勝田の田中氏によると古い大工の話に「宮の前、墓の後、三角屋敷つまり後の方がせまい土地はよくない。」といったという。
 神社の前をふさぎ、神社に背を向けることは神を軽ろんずるという意味だろう。墓の後は、けがれを忌む意味でこれをさけ、しりつぼみの土地は使いにくいということもあったろうし、地形が反発展性を象徴(しょうちょう)していると考えたのであろう。然し屋敷選定の原則は、大体生活の便宜を主としたようである。百姓の仕事に都合よく、健康に適した土地がよいとされたことは今と同じである。それが次のような形でいいならわされていた。
 川島の森田氏は「裏は山、西に道、東に流水のある屋敷がよい。そこで私の家では東に池があったので、これに柳を植えて、もじって柳水ということにした」といい、古里の荻山氏は「私の家はよい屋敷であるといって、他からほめられた。東に流水があり、前も後も西も全部道が通っている。そして後は山であり、前が庭田になっている」といっている。生活の便宜から出た条件のようであるが、古い時代の四神相応の思想なども入っているようである。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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