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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

三、村の生活(その二)

第2節:家普請(二) 村の協力

杉山村小右衛門の場合

 杉山村百姓小右衛門は、天明三年(1783)現在の「田畑惣高帳」によれば、田八反九畝二九歩、畑一町一反七畝一四歩、計二町七畝一三歩名請の大百姓である。名主組頭等村役人の家柄であった。ところで「本田御定免辻元石帳」によると、この田八反九畝廿九歩は、必ずしも常に小右衛門の手にあったわけではない。様々の移動があって、最後に万延二年(1861)になって、再び小右衛門の手に戻り、元来の姿にかえったのである。小右衛門本高の項の註記によってこのことがわかるのである。それではどのように移動したか。

広地かミ田 壱反廿六歩
 小右街門本高 天保二卯年越畑源蔵ニ有之候ヲ喜四年受出し同人より入
        天保三辰年喜右衛門江引
        又天保八酉年源蔵江入
        万延二辛酉年長蔵より入 小右衛門本高受出ス
同所六畝拾八歩 小右衛門分
        天保二卯年蔵身房ニ有之候ヲ喜四郎請出し同人より入
        天保四巳年越畑村源蔵江入
        又天保八酉年二月儀兵衛江引
        天保十五年辰年佐兵衛ニ有之候ヲ受出ス
前田壱反壱畝四歩 小右衛門本高
         山中に有之候ヲ 天保八酉年受出ス
同所壱反五歩  小右衛門本高
        甚右衛門に売置候ヲ 天保八酉年二月受出ス
ウツギ花 壱反歩 小右衛門本高
        長蔵方ニ有之候ヲ天保八酉年二月受出ス
カミ田 八畝廿歩 小右衛門本高
        山中ニ有之候ヲ天保九戌年受出ス
前田弁天前 壱反弐拾歩 小右衛門本高
         山中ニ有之候ヲ天保十亥年小右衛門受出ス
カミ田 壱反壱畝歩 小右衛門本高
         忠右衛門より山中江入又安政二卯年山中より受出ス
広地道端 壱反弐拾六歩 小右衛円本高
         安政七庚申年 佐兵衛ニ有之候ヲ受出ス

 これで合計八反九畝二九歩、年貢高は一石八〇九四である。
 右【上】の記録によって、小右衛門名請の田地が、一時他の人々の支配に委ねられたことが知られる。質入れによったものであろう。「又質」の場合もあるが、質取主も大体分る。又受出しの年度も明らかになっている。小右衛門が名請地を質入したのは何故だったろう。天保八丁酉年(1837)二月、地所預り主文右衛門から、小右衛門に宛てた「入置申証文之事」に「当酉年迄三拾四ヶ年以前享和年間ニ貴殿本高之内壱反壱畝四歩田 金子七両壱分ト銀六匁四分ニ而私方江質地ニ預り置候処……」とある。前田の壱反壱畝四歩の田のことである。(嵐山町誌42 入置申証文之事参照)質入の年度は享和三年であろう。その他にも甚右衛門の項に

前田弁天前 壱反廿歩 享和三亥年 小右衛門分入

とあり、又嘉兵衛のところにも

前田壱反五歩 享和三亥年 小右衛門分入

とあるから、小右衛門の田がこの年に相当質入れされたことが推測出来る。右【上】の三筆以外は註記が見出されないので質入の年度は不明としておく。そこでこの質入は何のためであったか。金を必要とする理由は何であったか、こう考えると、先ず第一に浮かぶのは家屋の建築費ではなかったのだろうかという想像である。
 安政三年(1856)吉田村百姓伊兵衛の母屋建築では、現金支出は金拾両二分二朱と銭一四貫六七四文であった。金にすれば一二両三分二朱である。これは記録されたものだけであり、実はこれを上廻る支出があったと思われるが、それはとも角拾両という金は、当時の百姓収入からすれば大金である。その蓄積は容易でなかったろう。同時にその大金を一度に費すような大事業は、一生の間にもそうたびたびはなかったにちがいないと思う。小右衛門は、一一畝四歩(一斗六五八)の田を入質して、金七両壱分と銀六匁四分を手に入れた。同時に入質した田は、壱反廿歩(一斗八二〇)と壱反五歩(二斗〇五一)である。括弧内の年貢高で知れるように、後の二筆、甚右衛門の分と、嘉兵衛の分は、はじめの文左衛門へ入質した田よりも年貢高が高い。土地は上等であった。従って質値も七両二分以下ということはあり得ない。仮に一筆七両二分と概算しても、三筆で二二両二分である。二十両以上の金を調達した小右衛門はこれを何に使ったのだろう。矢張り建築工事ではなかったか。今杉山の初雁喜一氏の住む母屋は一五〇年以上の古い建物と伝えている。様式も江戸時代のものである。小右衛門は初雁氏の祖である。これは前記の想像を裏付けするものである。ところでここで考えたいのは、この時の質取主である。文右衛門も甚右衛門も嘉兵衛も村の大百姓である。そしてこの人達は質地をとって、各自土地の集積を目的としたのかというとそうではない。この質地が「又質」の形で、二人、三人と転じているのでこれが分る。土地集積が目的ではなく、質地をとるのは、金を融通するための便宜であり、手段にすぎなかったと考えてよいようである。従ってこれは営利を本位としたのではなく、協力援助を目的としたもので、質地の設定は、その協力援助に対する感謝と保障程度の意味しかなかったのだと思われる。その土地は二、三の質取主の間を転じても、最後は質入主に返るものと信じられていた。金さえ返せば元の地主に戻るのである。この場合の質入は、金と引かえに一切の権利を放棄するものではなかった。金融の便宜にすぎなかった。このようにして、軽い気持で質入れをして資金を導入することが出来た。そして工事を実施したのである。村民の相互扶助がこのような形で行なわれたのである。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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