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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

二、村の生活(その一)

第5節:土地の移動

「又質」証文

 村に貨幣経済の波が押しよせ、従来の自給自足の生活の中に次第に商品依存の生活がひろがって来ると、貨幣が村民生活の安否を握る鍵となった。その貨幣を獲得する方法はといえば、先ず物を売ることであろう。然し当時百姓の生産物は米麦や雑穀が主で、商品として作られたものではなく、大半は年貢に、残りは農業経営必要費用と生活費に費消し尽された。米を売って金に代えても、これは年貢金納にそなえるものであって商品として利じゅんを目的としたものではなかった。このような経済状態の下で、貨幣を得るために売るものといえば、田畑以外にはなかったわけである。私たちは、さきに、田畑質入の形式面のことを主として見たのであるが、今度はこの質入の機能の面、つまり質入は当時の社会でどんなはたらきをしたのであるか、どのような役割を果したものであるかを考えてみよう。
 今日の通念でいえば、家財道具を質におくということは、決して他に吹聴(ふいちょう)すべきことがらではない。むしろ恥かしい行為である。こっそりと他にかくれて人に気づかれないようにしたいのが質入の人情である。江戸時代の田地入質もこれと同じように決して他に誇るべき行為ではなかったと思うが、然し今日とは大分趣の異ったところがあるように思われる。それは当時の金融の方法手段、つまり金の貸借はいつでも質入という形をとって行なわれたと思われる点があるからである。土地の質入といっても、必ずしも貧困者が金持から金を借りるために田地を質に入れるというだけではなく、金持同志相互の間や、金持という程でなくても、差して生活に困っているというのではなく、何かの都合で若干の金子を必要とするような場合でも、借金を融通して貰う場合は質入という形をとったように思われる。このことを少し調査してみよう。
 田畑の質入が主な金融の手段であったということ、いいかえれば金融は主に質入の形で行なわれたのであろうと考える一つの手がかりは「又質」の行なわれていることである。「又質」とは、質に取った地所を質取主から他へ質入することである。「又質」の例を二三挙げると、文化元年(1804)玉川郷和田の八右衛門から鎌形村の七郎兵衛に宛てたもので

   相渡申添証文之事
 下田壱反拾弐歩 名所  上大谷道下
一御年貢御役等ニ指詰リ申に付 右我等方江質物ニ請取申候証文之金子ニ而、貴殿江御無志ん仕当子ノ三月より巳ノ三月迄五年之間貴殿江質物ニ相渡、金四両三分弐朱慥に受取借用申処実正ニ御座候……………………

とあり、「又質」であることがはっきりのべられている。文化十二年(1815)鎌形村宮下の七郎兵衛から田黒村の幸右衛門にあてたものには

   添証文之事
一中畑五畝拾八歩  字殿ヶ谷戸
 地代金弐両也    但し文字金也
一書面之畑 善八分 我等方ニ而御年貢上納申所古証文相添質物相渡し書面の金子慥ニ請取借用申処実正也…… 本金返済申候ハバ古証共ニ無相違御帰し可ヒ下候……

とある。七郎兵衛が善八から質にとっておいた畑を更に幸右衛門に質入して金二両を借りたのである。「又質」の手続きは最初の質入証文に添えて「添証文」書いたことがわかる。質金ははじめの例にあるように、最初の金額で行なわれたようである。天保三年(1832)鎌形村中島の与助から小峯の源治郎に宛てた例には

   添証文之事
右者忠三郎方より質地ニ取置田地証文相渡金子弐両慥ニ受取申処実正也、本金返済候ハバ右之田地御返可ヒ下候尤元地元方より右之田地請戻候ハバ金子受取御返可ヒ成候……

となっている。以上三つの「又質」証文を比べて見ると、はじめのものは第二、三のものと大分違っている点がある。最初の例には「年貢御役に指詰」ったからといって、質入の理由をのべ、質年季を五年と定め「御上納之儀、貴殿方ニ而御勤御支配可成候」などと書いてあり、前述したような質入証文の形式をとりそれが整っている。ところがあとの二つの証文には借金の理由もないし、期限もない。第三の例には年貢についてのとりきめがない。第二の例では畑は質入主が耕作し、年貢を上納し作徳米を質取主に納めるようになっている。この中で最も注意を要することは質年季のとりきめがなくそれに代るものとして「本金返済候ハバ右之田地御返可ヒ下候」という点である。二つの例とも本金を返せば質地をもどすことになっている。年季をきめないで返金次第土地を返すということは、どうも本格的の入質とはちがっているようである。一時的の当座しのぎの入質であるというにおいが強い。質入の理由もないことと相まって、第一の例が同じ「又質」でも本式の質入と同じものであることに対し、第二、第三の例はごく暫定的の質入と考えてよいようである。従って又、第一の場合が一般質入と同様に、本当に生活に困った上でとられた手段とあるとすれば、第二、三は、同じく金の必要には迫られていたとしても、それ程深刻なものではなく一時の糊塗(こと)で解決する程度のものだったにちがいない。その後金の出来る目当てもついている。だから質入期限も定めず、本金返却次第と定めたのであろう。もともと質をとって金を貸す程度の百姓が深刻な貧乏に陥って、これを「又質」に置くということは、皆無ともいえないが、これを一般的な状況ときめることは不自然である。質入は金融の手段であり、金融は質入という形で行なわれたのである。貧乏人が金持から金を借りる方法に限られたわけではなかった。質入は別に不名誉のことではなかった。
 以上により田畑の質入は金融の一般的な手段であり、金融は質入の形で行なわれたという見方をしたのであるが、これは勿論、金融は質入だけで他にはその方法が全くなかったという主張ではない。念のためこの点も明らかにしよう。質入に類似したもので書入れという方法がある。これは利子を払って借金し、田畑は単に書くに止まるものである。例をあげよう。嘉永五年(1852)鎌形村栄造から田黒村五郎右衛門に宛てたもの。

   書入申金子借用手形之事
一金壱両弐分也   但し、通用保金也
 此引当
  一下々田 八畝三歩   字女久保
  一下々田 四畝拾弐歩  同  所
  一下々田 弐拾七歩   同  所
   反別合壱反三畝拾弐歩
 右者御年貢御上納差支……書面之田地書入前書之金子慥ニ請取……返金之儀は当子の十二月より来ル丑ノ二月迄元利共急度返金可仕候……

 嘉永五年(1852)十二月から翌年二月迄の短期間の借金である。利息の記載はない。期限が来て元利共支払えばそれで一切相済みとなる。本人が返金出来ない時は「請人方ニ而引受貴殿江金子ニ而元利共無相違相済可申候此金之儀如何様の儀御座候とも少も御若労懸け申間敷候」といっている。金の貸主にはあくまでも金で元利を返すというのである。返済不能の時引当の田地は貸主の手に渡すとは書いてない。請人が引受けて、金で借金を返すといっている。短期の借金であるし、貸主も田地をとることを希望しなかったのであろう。こんな場合に書入れという方法で金の貸借が行なわれた。その外に安政四年(1857)には、弐両の借金をし、「若其節金子出来兼候ハバ当午年一季奉公に罷出」その給金で返済するというのや、文政五年(1822)には、「頼母子ニ加入申候間 此当りくじの節」元利共返済するというものなどある。このように田畑質入の外にも金融の方法があったことがわかる。然し何といっても、本流は田畑の質入にあったことは動かないことだと思う。
 このように考えることによって、はじめて杉山村「元石帳」に現われた土地移動の実態を把捉することが出来るのである。前述のように忠次郎に関するもので水田だけの移動件数は、文化四年(1807)から天保十年(1839)までの三十三年間に五十二件を数えた。はげしい土地の移動といわなければならない。又、前掲の天保八年(1837)の「入置申証文之事」に出て来る小右衛門本高壱反壱畝四歩の水田は、享保三年(1718)に小右衛門から文右衛門へ、文化九年(又は文政七年)に文右衛門から甚右衛門へ、天保四年(1833)に甚右衛門から忠次郎へ天保八年(1837)に忠次郎から元の小右衛門へと四転している。これも急速な土地の移動である。これ等の移動がみな質入と呼ばれたことは、文右衛門の証文に「貴殿本高之内壱反壱畝四歩田金子七両壱分ト銀六匁四分ニ而私方江質地ニ預リ置候処……」とあり、前掲「元石帳」小右衛門の項に

「前田壱反五歩  弐斗五合壱勺
  小右衛門本高  天保八酉年入」

の次に朱書して、「嘉兵衛江質地ニ売、又同人より甚右衛門に売置候ヲ 天保八酉年二月受出ス」とあることにより明らかである。そして「質に預る」「質に売る」など、今日の売買とは異った意味で、一様に質入の事実をいったものであることもわかるのである。ここでも質に置く、質に入れることは、貧者対富者の落差の間にだけ生じた事実ではなかった。文政十二年(1829)の「惣高帳」によれば

▽小右衛門  田 八反九畝廿九歩
       畑 壱町壱反七畝拾四歩
       〆 弐町七畝拾三歩
▽市之丞(文右衛門)
  七反四畝廿五歩 田
  八反弐拾九歩  畑
  弐畝弐拾四歩  本田畑成
   〆壱町五反八畝拾八歩
▽甚右衛門は田畑合せて七反四畝六歩
▽嘉兵衛は同じく壱町四反四畝廿四歩
▽忠次郎
  八反五畝廿七歩 田
  七反六畝七歩  畑
   〆壱町六反弐畝四歩

となっており、甚右衛門の外は関係者が残らず一町歩以上の「本石」の所有者であり、質に入れた小右衛門も、それを「又質」にした文右衛門も甚右衛門も嘉兵衛も、有力な大百姓であった。質は貧富の傾斜を原理としたものではなく、共同体の相互扶助を本質としたものである。それは土地移動の様々の形を総称したものであった。
 私たちはこのように質入の意味や役割を考えたのであるが、然しこれは逆に土地の移動が全部入質受出しの形で行なわれたというわけでないことも承知しておかなければならない。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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