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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

二、村の生活(その一)

第5節:土地の移動

入質の実例

 入質についてその他の実例をあげてみよう。

▽文化元年(1804)玉川郷和田の八右衛門から、鎌形の七郎兵衛に宛てた質入証文
  相渡申添証文之事
   下田壱反拾弐歩  □□ 上大谷道下
(年貢諸役に指詰ったので、他から質物に請取っておいた土地を子の三月から巳の三月まで五年間、質物に渡し金四両三分弐朱を借用した。この期限までに地主から本金を返済したらこの土地を返して貰いたい。若し請出(うけだし)出来ない場合はこの証文を証拠に何年でも支配してよろしい)と書いてある。質地を更に入質した例である。小右衛門―市之丞―甚右衛門―忠次郎の例にあたる。

▽文化五年(1808)鎌形(小峯)の□□□から鎌形村(殿ヶ谷戸)の仁兵衛に宛てたもの。
    相渡申質地証文之事
 一下々畑 弐畝廿四歩 字ねば土場
 一下々畑 壱反弐畝廿歩 右同所
 一下々畑 九畝三歩   右同所
   三口合弐反四畝十七歩
  代金弐両者    文字金也
(年貢に困ったので右【上】の地所を質地に相渡し書面の金子を請取り年貢を上納した。但し年期は当辰の四月から来る申の四月まで五ヶ年、年季明けに本金を返済したら土地は返して貰いたい。その間の年貢は質取主の方で納めて欲しい。この土地について、従来書入等のことは一切存在しない)と書き、証人、組頭が連署し、名主が奥印を押している。自分の土地を質に入れた例である。

▽文化十一年(1814)地主武八より惣七に宛てたもの
  相渡申質地証文之事
   屋敷上畑壱畝拾五歩  門先之前
 内容は前掲のものと同じ、質金三両弐分で高額である。

▽文化十二年(1815)鎌形村の七郎兵衛から、田黒村の幸右衛門に宛てたもの
  添証文之事
   一中畑五畝拾八歩  字殿ヶ谷戸
    地代金弐両也  但シ文字金也
(書面之畑は善八分であるが、私が年貢を上納していた。その古証文を添えてこの田地を質物に渡し、たしかに金を借用した。本金を返済した時には、古証文と土地を返して貰いたい。尤もこの畑は私の近所で都合よいから、私が手作し、私の方から年貢諸役をつとめる。そして作徳壱ヶ年に銀廿四文宛、毎年霜月廿日限りに納付する。年貢小手形は私が保管しておく。)と書いている。

 以上五つの例は鎌形村の南部都幾川べり斑渓寺近辺の百姓たちや、これに接する田黒村の百姓たちの間に行なわれた田地質入の例である。文化元年(1804)から十二年(1815)までの十二年間に生じた五つの例を発見することが出来た。この証文は偶然の発見であって、組織的探索(たんさく)の結果ではないから、手をつくせば更に多くの例を見出すことが出来るだろう。つまりこの文化年間に於て質入による土地の移動が可成り頻繁に行なわれた事実から推定して、時代的にはその以前及びその後に続く時代もそうであり、地域的には全村的にこのことがあったと考えられるのである。そこでこの事実から杉山村「元石帳」等に現われた土地の移動も、一応入質によるものであると考えてよいと思う。
 さて次に遠山村の質地証文をとりあげて、質入の手続や条件などを考えてみよう。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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