ページの先頭

第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

二、村の生活(その一)

第4節:年貢の割付と皆済

杉山村年貢割付状

 享保四年(1719)亥十月発行の杉山村年貢割付状(ねんぐわりつけじょう)を見ると次のように書いてある。

  亥年武州杉山村御年貢可納割符之事
一高百九拾四石壱斗      高辻

  此訳ケ  田方拾七町八畝拾八歩   本田
  内 壱町九畝七歩   前々畑成引
    六町八反七畝廿弐歩 当検見引
 残九町壱反壱畝拾九歩
  此取米三拾九石弐斗 反四斗三升取
    此俵百拾弐俵
 下田 三反壱畝六歩     新田
   内弐反三畝弐歩    当検見引
 残 八畝四歩
   此取米三升五合    反四斗三升取
 横山牛ヶ沢     当不作 見取場
   畑方
 永六貫五百九拾弐文三分 本畑定納   口永共
 永六貫五百四文八分   本田畑成定納 口永共
 永弐貫六百三拾四文三分 新田定納   口永共
 永壱貫文        山銭定納

納合米百拾弐俵
   永拾貫八百八拾壱文四分
右之通相究候間百姓不残立合無相違致内割当霜月廿日以前急度可致皆済者也
 享保四年亥十月    伊藤杢右衛門 印
            杉山村
              名主
               百姓

 先ずこの年貢割付状の用語や内容を検討しよう。年貢割付状は言うまでもなく今日の徴税令書である。割付状には先ず、杉山村の石高を示して194石1斗とし、これは「高辻」つまり石高の合計、田畑屋敷石高を合わてこれだけの規模の村であることを明らかにしている。水田には、本田と新田と見取場の三通りがあった。本田は、その村が成立した当時検地し登録した田畑屋敷であり、「古田」ともいう。これに対して新に開墾した土地を検地し、石高をきめて村高に編入した田畑屋敷のことを新田といった。又、見取場は、河畔、山脚原野などを田畑に開墾したもので土地が瘠せており、又、諸方に点在しているので、本高の中に入れないで、毎年およその見当で年貢納入をさせる土地である。これも数年後、地味が成熟すれば検地して石高をきめ村高に編入することがある。その本田の中、水田面積が17町8畝18歩あるが、その中で畑になってしまったものが1町9畝7歩あるのでこれを除外したわけである。又「六町八反七畝廿弐歩 当検見引」というのは、畝引検見(せびきけみ)という年貢のきめ方で、根取検見ともいい、根取りとは先ず水田の上中下の等級に従って反当収穫量を定めておき、五公五民の方法で年貢を徴収することである。そして不作のため減租の要請のあった時には、定率の坪当収穫量と実地坪刈の収穫量とを比較して、減少した分を反別に換算して総反別より控除するというやり方である。坪当籾一升が定率であり、実地坪刈が0.8升という場合、0.2升に当る坪数は0.2坪、一反歩につき60坪つまり2畝が検見引となるわけである。このようにして算出した面積が6町8反7畝22歩あるという意味である。これと畑成の分とを控除すると残り反別は9町11畝19歩となるのである。ここでは一反歩当り年貢率は等級に差別なく4斗3升と定められてあった。それで残り反別とこの反当年貢率をかけ合わせれば、年貢高が出る。それが「此取米三拾九石弐斗」である。これを俵にすると、3斗5升入112俵となる。次に新田の分は検見引の結果残畝歩は、8畝4歩、取米は僅かに3斗5升であり、更にこの年は不作であったと見え、横山、牛ヶ沢見取場の分は「当不作」と書いてある。「当不作」は作付出来なかった田地である。その年作付しても全く荒廃したものは「当付荒」といっている。
 次に畑の分については「本畑・本田畑成・新畑」について、定額の「永何貫」をあげ、これに「山銭」を加えて、「永拾貫八百八拾壱文四分」としている。本田畑成の面積は、本田の部「前々畑成」に相当するものであろう。この四者の永高合計は拾貫八百八拾壱文になる。本田畑成の分に「六貫五百四文八分」とあるのは「六百五拾四文八分」の誤記である。同じ杉山村宝暦八年(1758)の割付状を見ると、本畑は1426畝23歩で、反当44文5分で取永6貫349文、本田畑成は109畝7歩、反当58文、計634文、新田は589畝27歩で、反47文、計2596文とあり、反別取永が大体この割付状の額と一致している。従って反当年貢高は、凡そ宝暦のものと同様であったと思われる。永何貫文の「永」というのは、永楽銭を基準にした金額の意味である。鎌倉末から租税を銭貨で納めることが行なわれはじめたが、当時は流通貨幣が様々で、品質も格差があったので、その中から信用度の高い永楽銭を採用してこれを通貨の基準にした。永楽銭でいくらいくらというように年貢の額を統一したのである。「口永共」というのは「口永」を含めた額ということである。「口米」というのは、米納の本租に付加して米で納めさせ、「口永」というのは金納の本租に付加して、銀、銭貨で納めさせた付加税である。はじめは収納物の減損を補うためのものであったが、元和二年(1616)幕府によって、「口米」は年貢一俵(3斗5升入)について1升「口永」は貢永100文について3文ときめられた。又、はじめは年貢徴収にあたる代官の事務費として代官に下付されたが、幕領では享保以降本年貢と同様に公納するようになった。
 この割付状には「口米」がない。宝暦の割付状は貢米永をそれぞれ、米三拾五石九斗四升弐合弐勺、永拾貫五百七拾九文と定めた後、外に、口米壱石弐升六合九勺、口永三百三拾文を示指している。この割付状では「口米」は反当4斗3升の中に含まれているのであろうと思われる。尚、宝暦の「口米」の率はこの場合一俵当り1升、「口永」は10貫文当り300文と定額に一致している。
 「山銭」は山年貢ともいって山林の年貢であるが、個人持なら持主から、村持なら村から、村の本高に結びつけて納めるものである。宝暦の割付状には「百姓持山永壱貫分」とあるからこれは個人持である。
 さて内容の検討はこの位にして先に進もう。先ず注意すべきは、年貢高の割出し方である。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
このページの先頭へ ▲