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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

二、村の生活(その一)

第3節:村役人

村役人の選任と給与

 村役人は、名主と組頭と百姓代から成っている。これを村方三役という。前掲の「村々地頭姓名石高下調帳」から文政十年(1827)当時の私たちの村々の村役人の名を挙げておいた。(第十表)
 一村に一人宛三役のあるもの、二人宛のもの、三人、四人、九人と数の多いものなど様々であるが、複数の場合は石高の多い鎌形以外、他はすべて相給の村で、領主一人に対し一組の村役人が存在した。ここにあげた村役人はすべて私たちの祖先であり、数代前の実在の人物である。これは説明をするまでもない。
 さて村役人にはどんな人がどんな方法で就任したか。「県治要略」村役人の項では

▽名主は村里の長で、村務を総理する職である。村内で威望のあるものを挙げる。土地の慣例により世襲のもの、終身のもの、毎年輪番のもの、投票で選挙するものなどいろいろある。
▽組頭はもと五人組の筆頭者をいったのであるが、後に村里の大小により五人乃至三、四人を公選して名主の補助役とした。
▽百姓代は村里中で田畑を多く持っているものの中から公選し、名主以下の職務を監督し、併せて常時村民を代表せしめたものである。

 今の村長、助役、収入役が、名主、組頭で、監査委員が百姓代ということになる。この三役は名誉職で無給のもの、又、持高に対して村費を免除するもの、多少米金の給与あるものなど、これも土地によって一定していなかった。
 私たちの村々ではその村役人は、誰がどのようにして選ばれたか、給与の点はどうなっていたか、今資料不足で全般を知ることが出来ない。遠山村明治三年(1870)の「名主選任議定書」(杉田角太郎氏蔵)によると

 「この度政府から名主を定役にせよという命令があったので、村方一同協議したところ、この村では以前定役名主をおいていたが、いろいろ都合の悪いことがもち上って小前百姓が難儀をした。そこで組頭を年番名主とし、一年交替で名主役を勤めさせて来た。以来数年村が平和に治り百姓共も安心して稼業を営んでいた。それで従来通り年番名主の制でいきたいが、たって定役にせよというお上の命令であるから、やむを得ず、組頭一人を五ヶ年間名主名儀で届け出し、実際はこれまでのように年番で名主をつとめ五年たったら、又名主名儀を改めて届出すことにする。」

とのべて村内百姓全員連印している。
 遠山村ははじめ無任期の名主があり、後に年番で名主をつとめるようになったことがわかる。年番名主になった理由は、任期のない名主の時村政に支障がおこり、村民が難儀をしたからである。難儀をしたというのは一人の名主が村政を壟断(ろうだん)したとでもいうのであらうか。遠山村の村役人選任は公選的な性格が多い。
 古里荻山忠治氏所蔵文書に、村役人選任の辞令書がある。「下知書」と標記して百姓代の初太郎を名主役に申付け、文次郎を百姓代に申付けるから入念に勤務するよう申渡すと書いてある。発令者は「地頭所」である。百姓代が名主にまわり新たに百姓代を選任したものである。これも世襲や無任期ではなかった。表面は地頭任命の形式をとったもので百姓一般の推せんによったものと思う。この辞令の年度と領主は不明である。  吉田小林利平氏所蔵の「天保四年(1833)辰田畑御年貢皆済目録帳」を見ると「米四俵名主給米ニ被下置候」「米壱俵弐斗組頭給米ニ被下置候」などの記載があるから、若干給与をうけていたことがわかる。杉山村寛政八年(1796)の「田畑御勘定目録控」にも同様の記載がある。(勘定目録参照)その他の村々については今のところ史料が出ないので不明である。
 さて村役人は、村にあって実際に村政に当った幕藩機構の末端機関であるが、当時の村の規約や申合せなどによって運営される村落自治体の代表者でもあった。今でいえば国や県の機関である税務署長や警察署長、県の出先機関の農林、土木、厚生等の役所の仕事をその町村については町村長が兼ねていることになる。名主はいはば国の役人であると共に村の世話人でもあった。このことは興味が深い。両者の役割を兼ねているということはどちらか一方だけよりもそれだけ権力が強くなるわけである。村政の実力者となるわけである。村政の実力者は領主ではなくて名主であった。行政組織の上ですでにそうなっていた。その上、前述のように領主は領内の政治を怠った。これを埋めるものは村役人である。こうして為政者の施策が不在であったということは、村民にとって原則的には不幸なことである。然し施策の不在はこれを裏返せば、干渉や強制が弱いということになる。従って村民の自主性が自ら確立されていたと考えられる。領主らしからぬ領主はこの意味で私たちにとっては有難い存在であったといってよい。これも又、村の共同体制を支えるものであった。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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