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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

二、村の生活(その一)

第3節:村役人

村役人可心得条々

 共同体の村には「村の寄合」があって、村の事件をすべて決議した。寄合は独立した本百姓の会議である。寄合は村の意志を作る村の意思機関である。これに対し村の事務を執行したり、村を代表したりする機関が村役人である。村役人は執行及び代表の機関である。この内部組織によって、共同体の活動が行なわれたのである。そこで次に村役人の性格について調べることにする。
 越畑の船戸治夫氏所蔵文書中に「村役人心得条目」という書冊がある。明治二年(1869)韮山県から発せられたものである。この年の六月、版籍奉還(はんせきほうかん)が行なわれたが、旧藩主は新藩知事としてその世襲をみとめられ、一応藩主同然の地位を得た。この地方はまだ幕藩時代の続きにあったと考えてよい。この村役人の心得書を検討してみよう。

(一)村役人は村の長として、百姓たちへ伝達の仕事をはじめ村民の世話や、村内出来ごとの処理をするのが役目である。又、村の総代に立つこともあるから、御仁政の趣旨を奉じて、精勤(せいきん)を遂ぐべきである。とのべて村役人(名主)の責務を概括(がいかつ)し、職務専念の覚悟を求め。
(二)役目にほこって、尊大驕奢(きようしや)の行ないをしてはならない。村内百姓から申出ることを、よし悪しも明らかにせず押えつけて上達しなかったり、公事訴訟などに賄賂(わいろ)をとって、不公平なとり扱いをしたりしてはならない。といって条理正しい村政に当るべきことをいましめ。
(三)政府の命令をよく守り、百姓たちはこれがよく分るように説明してやること。
(四)百姓が離散せぬよう注意し、貧窮の者は、あまりひどくなり、行詰らないうちに救済の手配をすること。華美(かび)をいましめ、無駄を省き、農業をすすめ、村民全体の生活が安定するよう努力すること。
(五)田畑が荒れないように、堤防、溝川、道路、橋梁等の補修を怠らないこと。洪水などで大損害をうけ復旧に困難のときは早く申出ること。
(六)田畑、用水、水筋、山林などの境界を正し、争論が起らないように注意を怠らないこと。
(七)御用の人馬、往来の者の人馬継立に支障のないよう計画をたてておくこと。
(八)御蔵米の管理を厳重にし、雨もりなどないよう倉庫を修理すること。
(九)収納米や、上納物など注意して取扱い、百姓の損にならぬよう心掛けること。
(十)水利をおこし、土地を開き、良木を植えなどして村里開発の長期計画をたてること。
(十一)村内の融和をはかり善をすすめ、悪をいましめることは村役人の責任である。心がけの悪いものは教えさとして改心させ、善行のものは表彰すること。
(十二)戸籍調査を怠らず、村内に不審の者をとめおかぬようにすること。
(十三)凶年、飢饉の時はその対策に万善を期すること。

 大体右【上】のようにのべている。これを前掲の郡代、代官の心得書や、職務内容と比べてみると殆んどその全てが一致している。役人の心得として、清廉(せいれん)潔白に身を持し、公平無私をもって村民に接すること。上意下達に遺漏(いろう)のないようつとめること。殖産興業(しよくさんこうぎよう)をはかること。土木建設の事業をおこすこと。村内の風教を正すこと。一村の融和をはかること。災害の対策に万善の配意を要することなど、幕府役人の責務がそのまま村役人の段階にまで下されている。
 私たちの村々では村政の実務者、事実上の村政執行者は村役人だったのである。旗本領主は領地支配には関心がうすく、その行政力は領内に浸透していなかった。領主の責任を肩代りして、村政の執行に当ったのは村役人であった。私たちは、幕府の地方官に対する教令と、村役人の心得を比較して、このような判断に到達するのである。もう一つの例をあげよう。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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