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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

二、村の生活(その一)

第2節:領主と村

相給村と共同体制

 地方知行は、給人の知行地がどの村のどの土地であるか、その村のどの百姓が所属するか、という二つの内容を持っというが、結果から見れば確かにそうなっている。それにちがいないのであるが、それをどんな方法で指定したのかという点が問題である。きまった方法がとられたとすれば、そこれは一定の方則がなければならない。然し前に考えたように、地域をハッキリと区画すると百姓の指定に無理が出来るし、百姓をきめてかかると地域の境界は曖昧(あいまい)になる。それで現実には川島地区のように三領主入相の田畑が現われたり、三領主支配下の百姓が混住するような形が出て来るのであろうと思われる。そしてこのことは要するに、田畑と百姓の指定については、特定の方則がなかったのではないかということになる。そして特定の方則は存在しなかったとしても、現実には、各額主に所属する地域と百姓はハッキリ定っておったのであるから、とに角どこかでどんな方法かで定められたものであることは否定出来ない。そこで考えられることは、地域や百姓の指定は、基本的にはある耕作団地、ある百姓聚落が着眼されてなされたものであろうが、細部の決定はその村の実情に基いて行なわれたにちがいないということである。あとで分るように、百姓たちは、いずれも、血縁のグループとか地縁のグループとかに含まれて、その中で共同の生活をしていた。グループの共同体制に支えられて百姓たちの毎日の生活が廻転していたのである。この生活上の事実に従って領地や領民の指定がなされたものと思うのである。地縁関係に従った場合もあろうし、血縁関係を主としたこともあろうし、両者を兼ね合わせて考えた例もあったろう。要するに百姓の生活を破らないことにその主眼がおかれたのだと考えるのである。
 このようにして、相給というような、一村分割の行政が存在しても、それは村の共同体制には、それを防げるような少しの影響もなかったということになるのである。血縁、地縁などによる小グループの共同体制が維持され、共同意識が存続する限りこれと全く同じ性格の上にある村の共同体制や共同意識には何の変動もおこるいわれがないからである。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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