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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

一、村の成立

第4節:杉山村の成立過程

慶長と昭和

 さていよいよ個々の問題に入ろう。ところで個々の百姓について具体的に、何某の百姓が、どんな経過を辿って本百姓に自立したのか、たとえば帯刀型の地主百姓はどんな経過で平均化し、助三郎型の分付百姓はどんな経路で中堅層に上昇したか、これを個人毎に明らかにすることが出来れば、前の総括的な見方を裏付けるものとなり、又、一層的確に本百姓成立の時期、従って村落共同体成立の時期をとらえることが出来ることになるわけである。然し残念なことには、この仕事を進める為の資料がない。この仕事は不可能である。それで別に一つの方法を考えた。それは杉山村を例にとって、慶長時代の百姓と現在の杉山の家々とを並べて見ることである。慶長二年(1597)の地主百姓が杉山村のどの辺に住んで、どの辺に土地をもっていたか、つまりその根拠の地区が明らかになれば、これを今の杉山の家々の所在地と並べて見て大体誰は帯刀の系統だとか、誰は外記の子孫だとかいうことが見当つくわけである。そしてこの見当がつけば今の家々はたしかに慶長の検地帳から出発して来たものだということになる。途中の経過は判明しないが、とに角、今の家々が慶長の家々にまっすぐ結びついていることは間違いないことになる。明治末年に於ける杉山の戸数は62、これは天明三年(1783)の宗門帳の百姓数に一致している。明治の杉山村、従って今の杉山は、天明三年にはもうすでに出来ていたのである。天明三年の杉山村は慶長二年から出発して続いているのである。これによって私たちは間違いなく、慶長の村を作っていた人たちやこれに直接血のつながる人々が、本百姓となって自立し村をつくって今日に及んでいるのであることを知る。杉山村には断絶や交替はないのであり、はじめの百姓がそのまま続いて江戸時代を経過し、明治から現代に及んでいることが分るのである。
 ただ総括的に本百姓の成立の面からだけではその成員に、どのような断絶、交替、移動が起ったのか、又一つのものの継続があったのかを見ることは出来ない。然しこうして、慶長と現在とを結びつけることが出来れば、慶長から出発した百姓そのものが自立して本百姓となり、そして杉山村を形成したのであるということが明確になるわけである。
 さて慶長二年(1597)の杉山村検地帳には、百姓26名の名があげられている。そしてこの中で、自分の土地をもつものは、その半数、帯刀、大祥之助、外記、主計、重左衛門、大蔵院、太郎次、藤四郎、与三郎、薬師堂、新四郎、小五郎、弥七の13名である。この13名が、大体杉山村の草分け百姓であり、その子孫や一族、関係者が独立して本百姓となり後の杉山村の構成分子になったものと思われる。そこでこの十三名のそれぞれの根拠地はどこであったか。大体どの辺に住んでどの辺の耕地を作っていたか、それを調査してみよう。
 検地帳にあらわれた当時の地名は、屋敷前、後谷、溝堀、谷、もくの入、岩花、うつぎ花、ほそ田、かみ田、沼の谷、笠張、あくと田、せき口、大町、金山、城ヶ谷戸、猿ヶ谷戸、川袋の十八である。この地名は現在に残っているものもあるが、すでに失われ、地元の人の記憶から消えてしまったものもある。
 これ等の地名の区域にある田畑の総面積と所有者別の内訳を表にすると、第九表のようになる。

第九表 A|スキャン画像
第九表 A

第九表 B|スキャン画像
第九表 B

 これによって、ある地域に田畑を最も多くもっている人がその地区の勢力の中心であり、その地域の中か、その近くの場所に住居を構えたと考えてよいだろう。
 そこで個々に検討してみると

▽帯刀は、せき口351畝18歩の田畑を独占している。帯刀は少くともこのせき口の近辺に住んでいたのであろう。
 関口の地名は今も残っていて、市の川に面した西北部である。然し帯刀の所有地は他の数地区にも広く存在する。その中で最も大きいのは、谷の95畝8歩である。谷は現在も地名があり打越下沼の沼頭の辺である。しかもこの谷は小五郎と折半し、小五郎の120畝25歩の外、他の所有者が介在していない。帯刀は、関口と谷との二つの地区を中心とした田畑を所有する。即ち大体杉山村北方の大百姓であったことがわかる。

▽大祥之助は、笠張170畝を殆んど独占している。他に小五郎の4畝があるだけである。笠張の名は今残らない。然しこの小五郎が谷の120畝余を有し、その他の土地も殆んど帯刀と同じ地域に持っているところを見ると、小五郎も帯刀と同様に北部の有力者であり、従って小五郎に関係ある笠張もこれに近い場所と見なければならない、大祥之助も大体北部の住人と見てよい。(古老によると笠張は今の稲笠の東方の地区らしい)

▽外記は、後谷203畝12歩、溝堀184畝15歩、大町102畝9歩、城ヶ谷戸107畝13歩という具合に各地に一町歩以上の土地を持っているので、これだけではどこが根拠であるか判然としない。しかし大町には藤四郎分が189畝13歩あって外記をしのぎ、城ヶ谷戸では重左衛門がこれも外記を上廻って、176畝14歩をもっている。そこで外記の根拠地区は彼が独占している後谷か溝掘かのどちらかと見るのが順当である。そしてこのきめては、第九表Bにあらわれている。外記は後谷の203畝12歩を主作地としている。溝堀は外記分ではあるが、これ又、三左衛門が全部耕作している。外記の根拠地は後谷である。然らば後谷とはどの辺であろうか。後谷の位置を探ってみよう。
 前とか後とかいう地名がおこるためには、何か著しい目印となるものがなければならない。その目印を標準にしてその前であるか後であるかによって、前とか後とかいう言葉のついた地名が出来てくるわけである。例えば、神社の前なら宮の前、寺の前なら寺の前である。後谷だけでは、どこの後であるか、何の後であるか不明である。だが後谷という言葉の中には、何となく個人的な私的な響きがただよっている。宮の前といえば、村の氏神の社の前ということで、村民全部に共通し納得された呼び方である。神社というような公共的なもの、誰のものでもない全体の人たちのものを目印として生れた名であるからである。後谷はこれとは趣がちがうようである。つまりある特定の家の人達が便宜的に自分の住居を標準にして、前の山、後の谷とよびならわしていた。せど山とか、前田というのと同じである。一般普通名詞に属するものである。ところが、ここではその私的な呼び方、普通名詞的な呼び方が、いつの間にか公共的の称号になり、その地域の個有名詞となって定着したのである。これはどういう理由によるものであろうか。考えられるのは、後谷と私的に呼んでいたその家の人たちがいつも村全体に何等かの影響力をもっていたのであろうということ、つまりその地区の勢力家、実力者である。その実力者のいうことを、平素周囲の人が真似ている中に、それが遂に公的な名称に固ってしまったのだと思われるのである。そこでその実力者とは誰であろうか。外記その人であったかも知れない。とに角、後谷よりも南の方に住んでいた人である。住家に対して、南の方角が前であり、北方が後である。住家は大体南向きだからである。
 さて現在、初雁茂氏の家号を屋敷という。初雁茂氏の祖が、初雁不二彦氏の祖から土地を貰ってここに住居を構えたのだという。その土地は古くから屋敷と称していたので、それがもとになって、初雁茂氏の家を屋敷というようになったということである。(初雁喜一氏談)して見ると、この辺に屋敷と呼ばれる実力者が住んでいた。屋敷と呼ばれる家は今でも旧家が多い。本屋敷があり、新屋敷があり、前屋敷等の家号が今も村内に相当ある。昔はその人の名を直接指さず、御所とか、お屋敷様とかいうのが貴人に対する礼であった。そういう意味も含まれていたのであろう。屋敷と称される一族があり、それが初雁茂氏の界隈(かいわい)だとすると後谷はその北の方向である。今の雁城の北斜面と明神前の南傾斜にはさまれた町村道の両側であったと思われる。これが後谷であり、外記の根拠地の主要部であったと思われる。

▽主計の所有地は杢の入96畝25歩、あくと田104畝3歩で、あくと田は主計の独占に近い。どの辺に住んでいたものであろうか。主計の主作地はあくと田の水田が主である。あくと田に近いところに主計の屋敷があったのではないだろうか。主計の主作地は、その外、かみ田、岩花等となっているからあくと田というのも、これ等と同様、かす川沿岸の地名ではないだろうか。然し古老の話では市の川沿岸であるという。今の中窪の一部である。「あくと」というのは、「あくつ」という言葉と同じで、川添いの平地という意味である。東部日本では極めて普通の地名でいづれも大小の水流に沿った卑湿(ひしつ)の地である。市の川沿岸でもまことによくあてはまるのである。主計の屋敷はあくと田に近い小高いところにあったのであろう。

▽重左衛門の土地は城ヶ谷戸に最も多い。城ヶ谷戸は、市の川を渡って志賀村から杉山村に入った道路の左右の地区である。重左衛門はこの城ヶ谷戸に下田一反二畝余、下畑四反余の主作地をもつが、大部分は惣重郎に作らせている。惣重郎の耕作地は下畑が大部分である。一方重左衛門は、うつぎ花、もくの入、岩花、上田の地区に、水田だけを主作している。主作者は一応開発者とも考えられるので、重左衛門の屋敷は、矢張り市の川側ではなく粕川側にあったと思われる。然し、これにはハッキリしたきめてがない。

▽大蔵院は、「風土記稿」に「本山派修験道の道場で、男衾郡板井村の長命寺の配下であり、中興の開山清尊は慶長二年に死去した」と書いてある。修験道の行者、つまり山伏は徳川の初期から地方の部落に定着して、村落生活の指導者になったものが多い。大蔵院のあとは、現存しているので説明の要はない。

▽太郎次の根拠は屋敷前である。太郎次の所有地は屋敷前の三分の二に近い面積である。屋敷前の位置は分らない。今薬師前という地名がある。やしき前とやくし前は発音が似ているし、やしき前には薬師堂の持地が少しあるので、やくし前はやしき前が転訛したのではなからうかという想像も出来る。検地帳には明らかに「屋敷」と書いてあるので、その頃屋敷前という地名があったことは動かせない。屋敷とは一つの普通名詞にすぎないが、これが目じるしとなって、そこに地名が出来たということになると、これは一般普通名詞の屋敷ではなく、特定の屋敷、固有名詞的に用いられていた「屋敷」であらう。屋敷といへばその特定の「屋敷」を指すことを村民の誰もが承認していたにちがいない。それではじめて屋敷まえの地名が出てくるわけである。検地帳によれば11名の百姓が屋敷をもっていた。その中の一つがとくに「屋敷」と呼ばれて別格の地位を得るようになったのは、そこに住んだ人が他の百姓とはちがった特異の存在であったからであらう。特異な点とは、大地主であるとか、旧家であるとか、政治的な権力に結びついているとかいうようなことであったにちがいない。太郎次はこの屋敷前に関係が深い。外記や、薬師堂と同じ地域の百姓であったと思われる。

▽藤四郎の根拠は大町である。ここの三分の二は藤四郎の持地である。そして他の地区には全くない。大町の位置も分らないが屋敷もこの地域にあったわけである。藤四郎は主作地が少く、大部分は惣左衛門が作っている。惣左衛門については後で考えることにしよう。
 町とは田の区画の意味だという。千町田というのは、沢山の区劃に分れた田の意味である。従って「大町」は矢張り区劃された田が沢山あることになる。広い場所でなければならない。大町は、市の川か粕川の沿岸であろう。

▽与三郎は猿ヶ谷戸でその大部分の土地を持ち、これを全部耕作している現地名に残っている。

▽薬師堂は「風土記稿」に「薬師堂 村持」とある。村民全体の参拝と奉仕に依て、維持されていたことがわかる。現存している。前述の屋敷前の土地は寄進によったものと思われる。

▽新四郎は、大町で8畝5歩の主作地をもつだけである。然し大町や城ヶ谷戸で外記の田畑を耕作し、その規模は一町に近い。新四郎についてもあとで触れるところがあろう。

▽小五郎は谷を中心として六つの地域に土地をもっている。広い地域に亘って、土地をもっているということは、広い分野にその勢力が及んでいることを意味する。谷は前記のように打越下沼の沼頭につづいた地区である。小五郎は帯刀、外記、重左衛門などと共に、有力な百姓の一人であったようである。

▽弥七は、川袋を独占しこれを自作している。川袋地区の開発地主であったろう。海岸でも山の中でも、水流の屈曲によって造られた広い平地をフクラという。ふくれるという意味であり、耕作や居住に適した土地である。フクロはフララと同じ意味だと解釈してもよいようである。市の川の水流によって造られた平地である。尤も、市の川と粕川の合流点に近い袋のような場所でもある。合流点を大袋というからその地形から出た名前とも考えられる。地名については後にのべる。

 主作地をもつ百姓、草分け百姓と思われる人たちの生活の根拠地を探って見ると以上のようになる。今の杉山の人達がこの中のどの系統かに発しているわけである。

 次に主作地のないつまり自分名儀の土地のない百姓、いわゆる分付百姓について調査してみよう。これに二種ある。分付主名儀の屋敷に住所をもつものと屋敷の全くないものとである。前者に属するものに

▽重左衛門がある。帯刀分の屋敷4畝13歩に住んでいるとある。重左衛門は帯刀の主要耕地のせき口で63畝01歩を耕作しており、その他の帯刀の分付百姓10名に比して、格段と耕地が多い。帯刀の分家に当るものではないだろうか。(他に重左衛門があるが別人であろう)

▽新四郎は外記分の屋敷に住む。そして大町、城ヶ谷戸に1町歩近い田畑を耕している。新四郎は自分名儀の屋敷はないが、大町の地区に僅かであるが主作地をもっている。新四郎は外記の一族で、大町に土地を分与され、屋敷は外記名儀の場所に住んでいたものと思われる。

▽三左衛門は、溝堀で外記の所有地を全部耕作している。屋敷も外記名儀のものを使っている。これも外記の一族であろう。後には本百姓として独立しその子孫は溝堀中心に続いているものと思う。

▽弥七は主計の所有地、もくの入、あくと田、金山などで、約19反歩を耕作し、耕作地は主計より多い。これも分家か、譜代下人であろう。屋敷は15坪でまことに狭少である。耕作反別は多いが、下田下畑が多く主計が主として生産性の高い水田を耕作していることに比較すると、実質的には、主計に及ばない。

▽惣重郎は重左衛門の一族であろう。有力な分家であろう。屋敷は重左衛門名儀であるが、4畝25歩で、重左衛門の1畝2歩よりはるかに多い。耕作反別も重左衛門にまさっている。耕作の地域も、主計と略同じである。分家とすれば有力な分家である。

▽惣左衛門は、藤四郎3畝22歩の屋敷をかり、而も藤四郎の土地の大部分を耕作している。藤四郎は、一反歩足らずの下畑を作っているにすぎない。而も惣左衛門は太郎次分のやしき前の田畑を作っている。この関係はよく分らない。

 帯刀、大祥之助、主計などには、右【上】のようにはっきり一族一門と考えることのできない小百姓がついていた。いづれも2反歩程度の田畑の耕作をしている。土地は自分の名儀ではない。居所がないから多分、本家や主人の屋敷中の建物にでも住んでいた一族や、下人であったと思われる。これ等のものがやがて独立して本百姓となる。これで慶長年度の顔触れを一応検討できたわけである。
 次に大字杉山に住む現在の家々をしらべてみよう。
 安藤専一氏の「七郷村誌」には七郷村の姓別戸数表が掲げてある。この調査によると、大字杉山では

▽谷組
 内田(七)、金子(四)、初雁(三)、奥田、阿部、杉山、新井、川原、藤本、塔鼻、馬場(各一)

▽西側
 金子(六)、早川(五)、新井(五)、奥田(三)、伊藤、大野、島田(各二)、初雁、兼古、伊地知(各一)

▽貝戸、川袋
 内田(十一)、水島(十二)、小林、三須(各一)

となっている。  又同書では各戸の家紋の調査をしているが、これによると谷組の内田氏は7軒とも「丸に横木瓜」、金子氏はいずもれ「丸に抱沢瀉」、初雁氏は3軒とも「三つ雁」である。そして姓はちがうが、家紋の同じものに「鷹羽」が阿部、杉山二氏、新井氏は金子氏、馬場氏は内田氏と同じである。
 西側では、金子氏が「抱沢瀉」、早川氏が「三つ割桔梗」、新井氏が「丸に蔓柏」2軒、「丸に沢瀉」3軒、奥田氏が「おかにかなはち」、伊藤氏が「下り藤」、大野氏「上り藤」、島田氏「丸に三つ柏」でいずれも2軒宛であるが同じ紋所である。1軒の初雁氏は谷組初雁氏と同じ「三つ雁」である。
 次に貝戸、川袋組では、内田氏11軒がみな「横木瓜」、水島氏は8軒が「花沢潟」、4軒が「丸に花沢潟」である。1軒の小林氏が、谷組金子氏と同じ「丸に抱沢潟」である。
 以上の中から、姓と家紋が共通しているものをあげると
 内田氏(A)、金子氏(A)、初雁氏、金子氏(B)、早川氏、新井氏(A)、新井氏(B)、奥田氏、伊藤氏、大野氏、島田氏、内田氏(B)、水島氏(A)、水島氏(B)となっている。他に「鷹羽」が2軒ある。
 私たちは今杉山村の13名の地主やその分家などがどの辺を中心にして住んでいたものか、それをしらべて来た。中にははっきりしないものがある。而してこれを今杉山地区に住む14氏と並べて考えればこの両者の間に、それぞれの連絡線を引いて結び合わせることが出来ると思うのである。
 かくして杉山村に住み、杉山村を構成していた人たちの出発から終着までを辿ることが出来る。そして、その出発当初の村は、自立性の弱い農民、つまり傍系家族や下人家族、下男、下女などをかかえた家父長制的な地主の、いくつかのグループが集って出来ていたものであり、個々の百姓は、このグループのどれかに隷属的に含まれていた。然し終着ではこれが変って、個々の百姓はそれぞれ自立して独立の経営を行い、一人前の小前百姓として、村を組織する一メンバーとなっていた。勿論、独立したといっても、昔の血縁や地縁のグループと全く隔絶(かくぜつ)して自分勝手の生活をしたというのではなく、そのグループに含まれ、そのグループの、きまりや、慣習に服従していたという面は強く存在しているが、この強制は隷属ではなく共同の作用である。(これは後にふれる)かくて出発と終着とでは、百姓自立の点で全くその発展の段階を別にするが、この経過の間に生きた百姓は同一人であったということを知ったわけである。
 更に繰返えしていえば、村落共同体の成立は、人々がこの終着の段階に達したときに対応していると考えられるのである。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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