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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

一、村の成立

第3節:小農自立の展開

吉田村の検地帳

 もう一つ吉田村の検地帳をしらべてみよう。資料は、小林利平氏蔵「宝永二年酉二月、武蔵国比企郡吉田村田方御改帳、同畑方御改帳」である。この村で宝永二年(1705)に検地の実施されたことは「風土記稿」にも載っている。帳簿は文化六年(1809)に名主伊兵衛が書写したものである。この検地帳によると、田の総面積は、31町9歩、畑は9町9反7畝26歩、百姓数は56である。一戸当り平均反別は、田が55畝15歩、畑が17畝25歩、田畑合せて73畝10歩である。この村の特色は先ず、5反歩以上の百姓が36名あり、これは全体の半分以上64%強である。そして2反歩以下の弱小百姓は僅か7名、1町歩以上が11名、内2町歩以上は僅かに1名でこれも数が多くない。要するに耕作地は平均的に分配され、中堅層が多く堅実な村の様相を示しているといってよい。このことは反別だけでなく田畑の配分にも現われている。
 水田4反歩以上のものが34名、畑1反以上のものが36名、つまり半数以上の百姓に田畑共、平均反別に近い面積が配分されている。水田と畑がある特定の人たちだけに片寄っていない。堅実なすがたである。
 尚、田を4反以上畑を1反以上この両方をかねてもっている百姓の実数は30名である。これも半数以上であるから、堅実な村という見方を裏付けるものである。更にもう一つ、上中下田畑の配分である。今かりに、無作為抽出によって、1町歩以上のもの、6反歩前後のもの、3反歩程度のものをとって見ると、

1町歩以上・6反歩前後・3反歩程度無作為抽出一覧表|スキャン画像

 いづれの階層にも、上中下の田畑が偏頻なく配分されている。一般的に大百姓には、上級の田畑が集中し、小百姓には下級の田畑が多いのであるが、この村ではこの傾向が見られない。しかも大部分の百姓が皆屋敷持ちであることも注意しなければならない。委細は別掲の表によって見て貰いたい。

第七表 吉田村名寄せ帳|スキャン画像
第七表 吉田村名寄せ帳(宝永二年検地帳による)

 尚、この資料に現はれた地名は田の部が、前 天神下 西村屋敷 うば谷 小田谷 大谷 高山 三反田入 三反田沼下 長竹辻 志やくし 長竹 後 みやうが 八反田 ばんば 宮田 いけのや 越畑前 鶴まき入 鶴まき なべ谷下 高たう ゑの木町 川ばた おなかなたくつかた 志みつ 畑あい よふさた 竹のはな 六反田 あめがいと 五反田入 沼入明が、畑の部は 田嶋 山下 さが 勝田境 ほうぞうし 東畑 西の谷 金山 高山 三反田 小田谷 向 長竹川ばた 長竹道ぞい 大久保やつ 向のやつ 長竹まへ 長竹道上 後宮わき 後角 矢崎 東うら みようが駒込しほ境 つつみ いけのや かに沢 なべ谷 長竹やつ 長竹だい 長おね 野山 中山 手白前 うらの山 前畑である。
 これを現在の地名と対比して見ると、大体吉田の全域に亘っている。吉田村は、折井、山本、菅沼(曾我)松下の四給地になっているが、これに拘りなく宝永の検地は、代官町野惣右衛門、河原清兵衛の手により一斉に行われたものである。吉田村の検地帳は、越畑村には似ないで、遠山村に近い。そして帯刀型、助三郎型の名残りがハッキリつかめない。遠山村より進んだものと見てよいだろう。検地帳の百姓数は56、明治末年の戸数は99である。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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