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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

はじめに

村方古物改口上書

 徳川十一代家斉の文政四年(1824)二月八日のことである。広野村の月番名主半右衛門の許へ隣村越畑村の名主から一通の廻状が届けられた。
 この書状は、幕府の最高学府江戸学問所を主宰する儒者林大学頭支配下の役人、井上彦右衛門と築山茂左衛門との連名で出されたもので、その内容は次のようなものであった。

 「この度、幕府で地誌編纂の事業を計画し、村々、開発以来の歴史、神社仏閣の由緒(ゆいしよ)、名所古跡の類などを調査することになった。それで、村の歴史に関する記録や古証文、社寺の棟札(むねふだ)、領主地頭の姓名や交替の年代などを、あらかじめ調査しておくこと。又、百姓の家柄などもしらべるから、その系図、古記録、古証文の類、武器などを持っている者があったらこれもよくしらべておくこと。

 右【上】の調査は追って廻村の期日をきめて通知するから、それまでに完了しておくこと」
つまり、江戸学問所の地誌調所で、地誌編纂のため、資料の蒐集(しゆうしゆう)に行くから、その下しらべをしておけというのである。
 尚この廻文は「村絵図があったら写しを差出すこと。記録、古証文、棟札など百姓の家柄関係のものは、こちらで写しとるからその方の写しはいらない。村の由緒や地名などのいわれを聞きたいから、村役人だけでなく、歴史や伝説等にくわしい者を同道出頭させるよう手配すること」などの注意を付記している。
 名主半右衛門は、これを受けるとすぐに、村内の他の名主、弥藤治・太兵衛・半蔵の三人をよんで、この廻文を示し、更にこれを次の杉山村に送った。廻文は今の吉見村南薗部から東松山市・滑川村・嵐山町・小川町内の村々五十二ヶ村の村役人宛に発せられたものである。
 その後数日、広野村四人の名主は廻文の指示に従って資料の探索(たんさく)と整理(せいり)に没頭した。そして調査官井上・築山の廻村は意外に早かった。二月十三日付の廻状で

「地誌認御用に付、先達而廻状を以申遣候通り取認候条村役人は勿論土地之儀相心得候者壱人明十四日九ッ時羽尾村江可被罷出候……」

 といって来た。先日通知したとおり地誌の調査を実施するから、二月十四日正午に羽尾村の会所へ集合しろというのである。当日羽尾村に出張したのは、四人の名主の外に百姓代の宇八が加わって五名であった。この時調査官に対して報告したことの内容が、書きとめられて現在残っている。これが「村方古物改口上書写」である。
 尚この日羽尾村に集ったのは、平・野田・大谷・山田・水房・菅・伊子・太郎丸・中尾・福田・越畑・広野の十三ヶ村で、この会合の費用は三両二朱であり、その半分を平等割他の半分を村高割で負担支弁している。(これは、またあとで出てくる筈である。ここでは一応その事実を掲げておく。)
 さてここでしばらくこの「村方古物改口上書」(以下「口上書」と略記する)の内容を紹介することにしよう。というのは、文政八年(一八二五)昌平黌地誌局の手で成稿した「新編武蔵風土記稿」二六五巻は、主として、この口上書を資料として出来たものと考えられるからである。少くともこの地方の村々の記事についてはそう考えて支障ないと思われる。
 口上書によれば広野村は文政四年(1821)の当時、左のように四人の旗本によって分割知行されていた。

一、内藤主膳   高一五〇石三五一 名主 弥藤次
一、嶋田藤十郎  高一〇九石四六四 名主 太兵衛
一、木下久兵衛  高 九五石〇五〇 名主半右衛門
一、大久保築前守 高 七五石一七五 名主 半蔵

 そしてこの四人の知行所となるまでに次のような支配者の異動があった。
 先ず慶安元年に検地が行なわれ、永禄十一年(1698)まで高木九助の知行所となっていた。この年をさかいに村は分割支配され、元禄十一年にその一部が高谷太兵衛の支配所となり、これはすぐ同じ年に嶋田藤十郎の知行地となった。他の一部はこの年に黒田豊前守の領地となり、十三年(1700)にこれが比企長左衛門に移り、十七年(1704)に木下伊賀守の知行所とかわった。この外に年代は不明だが、小林太郎左衛門のおさめる土地があって、これが宝永二年(1705)に内藤主膳、宝永四年(1707)に大久保筑前守に渡ったのである。こうして内藤、嶋田、木下、大久保の四給村となったのである。更に報告書は次のようにのべている。

 広野という村名の起原は、広正寺の開基高木九助広正が寺号を広正寺と名付けたので、その広という字をとって広野村とした。
 村の形は東西二八丁、南北八丁乃至九丁で、村境は東は太郎丸村、南から西へかけて杉山村、西は越畑村、北は勝田村、北東が伊子村である。その外に太郎丸村をへだてて、字川島と、勝田村をはさんで字勝田の二つの飛地がある。
 社寺には、村中惣鎮守の八宮神社があり、本山派山伏の泉学院が支配している。棟札は寛永十七年(1640)。金皿明神は吉兵衛持で棟札は同じく寛永十七年である。弥陀堂は下郷村持、中郷村持それぞれ一つづつ。飛地川島に鬼神明神があり、惣村持で氏子は川島、参銭宮鍵は川島の組頭三人が預っている。広正寺は、慶安二年(1649)八月二十四日付、高二十石の御朱印地を賜り、朱印状が六通ある。本尊は阿弥陀如来、本寺は市之川村永福寺、開山は起山洞虎大和尚、永和六年(1362)庚申十一月十二日示寂、開基は万福院殿大翁秀椿大居士、慶長十一年(1606)丙午七月二十六日示寂、広正寺殿性空道把大居士は寛永九年(1632)壬申十一月十日卒、俗名は高木甚左衛門正繩である。  大鐘は指渡(さしわたし)二尺三寸、享保二年の鋳造である。

 以上が「口上書」の概要である。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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