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嵐山町web博物誌・第4巻「嵐山町の原始・古代」

1.九州から始まった弥生文化

弥生ムラの一年:早春|イラスト
弥生ムラの一年:初夏|イラスト
弥生ムラの一年:早春から初夏(滋賀県立安土城考古博物館提供) 稲作には一年の半分が費やされます。春になると田の畔や水路に矢板を打ち込み、田起こしの作業が始まり、やがて水の張られた田では田植えが行われます。現代の稲作と全く同じ手順で作業が行われましたが、大型機械はおろか牛馬の使用もまだなかった初期の農作業は、ムラ中総出の労働なくしては成り立ちません。

稲作文化、海を渡る

避難民が伝えた農耕文化

 時は2300年前の北九州。朝鮮半島から人々が大挙してやって来て住み着くようになりました。そのかれらが持ち込んだ新しい生活様式が日本の時代を変え、現代にまでつながる日本の原点ともいえる社会と文化を生み出す契機となったのでした。
 生活の中での最も大きな違いは、稲作と畑作でした。それ以前の縄文時代に行なわれていた畑地での栽培は補助的なもので、食糧の獲得はあくまでも採集、狩猟、漁撈が主体でした。一方、移民たちが行なったのは、積極的な食糧生産を目指す「農耕」です。そして稲作については、より収穫量の多い水田の技術が伝わりました。
 日本の民は大陸の文物を柔軟に取り入れ、自ら社会を変えました。新しい文化は九州から西日本へと拡大していきます。

稲作の伝播経路
稲作の伝播経路|図 稲作伝来の経路は、幾つか考えられています。しかし黄河以北の大陸や南西諸島・南九州には、当時の稲作が行われていた痕跡は確認されていません。よって稲作道具の類似性からみて、稲作は朝鮮半島南部から伝来してきたものと考えられます。
稲作発祥のムラ菜畑遺跡の復原模型(末臚館展示、唐津市教育委員会提供)
復原模型|写真 北九州では縄文時代の晩期(2600年前)には早くも稲作が伝わりました。菜畑遺跡はその代表的な遺跡で、水田跡や農耕具、炭化した米などが発見されています。その後移民が急増し、稲作も一気に広まります。

弥生ムラの一年:夏から冬(滋賀県立安土城考古博物館提供) 夏場の草取りや防虫対策を乗りきると、やがて秋には収穫の時期を迎えます。人々は、稲作と同時に畑作も盛んに行なうようになりました。アワ・ヒエ・キビ・オオムギ・コムギなどの穀類やダイズ・アズキ・ソラマメなどが栽培されていたことも確認されています。秋から冬場は漁や狩りも行われました。暦に従った労働の忙しさの中にも充実した一年が過ぎていきます。
弥生ムラの一年:夏から秋|イラスト
弥生ムラの一年:秋から冬|イラスト

コラム1:長粒米と短粒米、栽培方法の違い

 米は、現在では品種改良が究極まで進み、何千もの種類がありますが、大きくは二種類に分けられます。私達が主食にしている、丸みのある粒で、もちもちとした食感の「短粒米」(ジャポニカ種)は温帯地域に、粒が細長く、粘りのない「長粒米」(インディカ種)は主に熱帯地域で栽培されています。弥生時代の米は短粒ですが、現在の米とは少し違っていました。粘りけは少なく、籾の内側の薄皮に赤や黒、あるいは濃い紫の色がついていました。
 稲の栽培には、「陸稲」と「水稲」という二つの方法があります。陸稲は畑地での栽培で、多量の水を必要としないので簡便な方法です。ただしその分、収穫量はかなり少なくなります。また同じ水稲栽培でも、種籾を直接田に蒔き、そのまま成長させる「直蒔き法」と、育てた苗を田に移植する「田植法」とがあります。直蒔きは、大幅に手間は省けますが、収穫量は田植法よりも減ります。
 かつて研究者たちは、弥生時代には簡単な直蒔きが採用され、次第に田植に発展したと推測していました。しかし、水田跡の発掘調査例が増え、整然と並ぶ稲株の跡も発見されるようになり、朝鮮半島の人々が最初から田植の技術を伝えたのだろうと考えられるようになりました。

炭化米(池上遺跡出土、行田市郷土博物館提供)
炭化米|写真
現代の精白米と赤米・黒米の玄米
現代の精白米と赤米・黒米の玄米|写真
現代の玄米はほぼ白色をしていますが、赤米・黒米の玄米はそれぞれ同様の色がついていました。小豆で色をつけるお赤飯は、この赤米を食べていた頃の名残だといわれています。