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第6巻【近世・近代・現代編】- 第7章:文芸・学術・スポーツ

第2節:和算

武蔵比企郡の諸算者(三)

 八、内田祐五郎往延は、菅谷在杉山の人であるが、明治十一年(1878)に岩殿観音へ算額を奉納した。今も立派に現存して居る。前に「奉懸御寶前算術問」と記るし、二ヶ條の題術を述べ、さて
    熊谷驛
  關流七傳 格齋戸根木與右衞門貞一門人
          武州比企郡杉山村
             内田祐五郎往延
   明治十一戊寅年吉祥日
となって居る。月が書いてないのは、書き落したのであろう。岩殿観音は明治十一年(1878)十二月三十一日に炎上し、前に在った紫竹小高多聞治の算額なども悉く烏有(うゆう)に帰したのである。火災前には他にも算額があった事は、小高明太郎翁が亡父からの伝聞として語られるし、正法寺に於ても額面は多数に懸って居たから、算額も必ずあったろうとの事である。而も凡て焼失して遺る所はない。然るに其炎上の年に奉納の一算額のみ現に存して居るのは、誠に不思議である。
 旧観音堂は堂々たる大伽藍であって、三年も掛って屋根替中に火災の厄に会ったのであるが、其後、入間郡白子観音堂を移し建てたのが、今の堂である。十九年(1886)四月に落成した。然らば、内田の算額は十一年(1878)某月に奉納されたが、修繕中の為めに堂内に掲揚せずして、庫裏に保管中であったもので、幸に災厄を免れたのであろうとは、正法寺での談である。但し同寺略縁起には明治十一年一月の炎上とあるが、同寺での実話と何れが真なるかは、私は知らぬ。
 右の算額に熊谷戸根木貞一が關流七傳とあるのは、關流の六傳なる江戸の藤田貞升門人であるのに依る。貞一の事は「北武蔵の數學」にも紹介し、又「熊谷地方の數學」の中にも述べておいたが、比企郡に内田の如き門人のあった事は、今始めて之を知るのである。
 内田は後に菅谷村志賀の根岸氏未亡人の入婿となり、月隣村宮前村輪の矢尻に卜居し、其居宅の傍に碑が立って居る。上に算法の二字を横書し、其下に一つの図形を書き、左右に題術を分けて誌るし、下方に「内田往延先生之碑」と刻し裏面に碑文がある。此の如き形式の碑は他に見難き珍しいものである。其文に言う。

夫數之於天下。其用廣哉。近而備於身體。遠而滿六舎。天之高也。星辰之遠也。苟得其故。則千薉之日至。座而可識者。非數術何哉。于茲有内田先生者。通稱祐五郎。天保十四年(1843)三月廿三日生。比企郡七郷村大字杉山内田喜左衞門之二男也。明治十七年(1884)三月四日。同郡菅谷村大字志賀爲根彦彦九郎之後嗣矣。情自幼温良頴悟。而特好數學。爲嬉戯常玩等(○算の誤刻)術。長而大里郡熊谷町數學者關流入門戸根木與衛門先生。研究數學數年。又群馬縣之人訪豫山劍持先生之門。修暦數之學。刻苦精勵。極斯學之薀奧也。故被稱地方算學之泰斗。當時嘖々之有名也。故明治九年。會地租改正之挙擧哉。特編輯繪圖。及杉山村被命地檢擔當人也。是皆薀蓄數學之功也。故測量正確。而其成績亦良好也。云云。於是乎。先生高名聞四方。不問遐閭遠近尋來而乞敎者接踵。其數學者非訓古之學而已。先人未發之術創見。要之也。其上者。高遠哲學的入思索。下者日用之實學及也。抑我國者。古來尊儒學。故以儒學成名者。枚擧雖不遑。獨至數學。微々不振。爲攻究者亦稀也。盖雖此實用之學被輕者。弊風之所爲乎。先生資性廣記。而志操確實。克當時排研學之難。夙夜精勵。高尚廣汎。達斯學盡力應用。其博識宏辭。而又通儒佛之學。時而説聖賢之道矣。故近郷人。有難解事。即就先生求解也。先生爲人。恬淡磊落(らいらく外。清廉自持。耕於田野。而悠々自適。可惜矣。時恰際會世態激變之潮漲。大西文化輸入之急流。忠也否。稀世之酬和算學者。甚不幸。可偉才以爲被杇閙巷之間。鳴。於玆門人等。先生之慕學德。相諮而建碑。以爲後世之記念而爾。
  昭和八年晩秋 大塚隣溪撰。篠崎千松拜書。

 下方に拠資芳名があり、近隣諸村落の人々であることは、其記載に依って知られる。
 此碑文は和文風を交えた漢文で、中には少しばかり解し難い所もある。而も之に依って内田祐五郎の経歴は略々知ることが出来よう。碑は其生前に出来て居たので、没年月日は書いてないが、随分もました事も有って建設に至らず。没後になって始めて建てられたのである。昭和八年(1933)とあるのは後の記入に外ならぬ。
 碑文には熊谷の戸根木與右衛門に師事した外に、群馬縣の人剣持豫山を訪うて暦数の学を修めたとあるが、剣持は遊歴の算家であり、熊谷では戸根木と甚だ親しい間柄であったから、其関係から此人にも学んだものであろう。上州へ習いに行ったと解すべきではない。
 測量にも堪能であり、明治九年(1876)の地租改正に際して、丈量を担当し、絵図を引いたりした事も、碑文で認められる。此事は各地方の多くの算者が関与した事件であった。
 云々とあるのは原文のまゝである。
 祐五郎は先人未発の術の創見もあり、日用の実学にも努める外に、哲学的の高遠な思索にも従事し、儒仏の学にも通じて居たと云ふが、其造詣の程は未だ窺い見る事が出来ない。
 然るに数学は実用の学であるのに、儒学の如きは世に尊重されて、名を成したものも多いが、数学だけは左ほどに尊ばれないのは慨すべきであるが、祐五郎は此世情を外処(よそ)に見て敢て之を学修し教授したのは称すべきだと云ふように説いてあるのも、往時に於ける算者の状態を示めし得た代表的の文字とも言われよう。斯くして算者になって世間を指導して居るのに、世態は変化し、西洋文化の洪水に押し流されて折角の効力をも発揮し難くなるのが、残念だと云ふのも、亦和算家の末期の悲哀を如実に語るものである。
 此碑文には誇張もあろうけれども、併し祐五郎が近辺数里の地域に於て門人等の中で重宝がられ、数学を普及して日用の知識を助成した功労は、充分に之を描写されて居るのである。菅谷村小学校編の一枚摺内田往延伝には「門下は比企大里二郡にまたがり實に五百の多きを超えたりと云ふ」と見える。遺族の談では二千に余まったとも云ふ。
 祐五郎が生れたのは、今の七郷村杉山の内の川袋と云ふ所であり、菅谷へ最も近接して居る。其家の当主を内田千代松氏と云ふ。昭和十三年(1938)八十歳の老翁で、祐五郎の甥である。此人の談に拠れば、四十二、三で婿に行くまでは家に居って教えて居た。習いに来るものもあれば、教えにも行った。弟子の中で十露盤(そろばん)の出来るのは、たしか二、三人もあったろうが、他に弟子は随分多かった。教える許りで、百姓仕事などは余りしない人であった。数学は熊谷の練屋(即ち戸根本氏)に習い、又剣持先生にも習う。叔父(即ち祐五郎)の談では、剣持はこよみの方で、算術は己より下だと言って居た。剣持が杉山辺へ来たと云ふ話しはない。練屋の方で余計に習ったのである。練屋に就く前に先生が有ったか無いかは判らない。
 此辺では他に十露盤を教えた人の事も聞かないし、あれだけ出来る人もなかった。岩殿山へ額を上げる前に、野原の文殊寺へも奉納した。立派な寺であった。山や土地の世話もよくしたし、測量は大分出来た。口を利かないで、無頓着な人であった。
 明治十七年(1884)四十二歳で、隣村志賀(菅谷村の内)の根岸氏未亡人の入婿になったが、根岸氏には先夫の子もあり、何か世話する人の間にかごたごたした事があって、菅谷の隣村月輪(宮前村の内)へ家を持つこととなった。其付近に門人武井某なるものがあり、其家に寓した事があって、それから其處へ落付くことになったのである。(諸方での談に拠る。)
 月輪に移ってからも、門人等は多かった。習いに来るものもあったが、教えに行く方が多かった。亡くなる前頃までも教えて居て、臥床のまゝで教えた事もある。七十八歳の時に本を出す積りもあったが、中止した。月輪の家では、十露盤ばかりで、仕事などはしなかった。野良仕事は、夫人がする計りであった。夫人はおとなしい、すなをな人であった。(遺子根岸文助氏夫妻、志賀根岸勝次氏家族談)。
 祐五郎は大正十一年(1922)に没し、夫人も前後して世を去った。香料帳に

  大正十一年六月十一日
  靑海道祐信士    施主 根岸文助

とあり、夫人の墓には「博質貞愛大姉、大正十一年六月三十日、比企郡野本村下押埀神田茂平次長女俗名ふさ、施主根岸勝次」とある。祐五郎の墓石は未だ出来て居らぬ。根岸勝次氏家族の談に、祐五郎夫妻は老衰にて枕を並べて寝て居たが、祖父は宮前に、祖母は志賀へ引取って養生に努めたけれども、二人相尋いで永眠し、二人共に志賀根岸氏の墓地に葬ったのである。祐五郎は享年八十歳であり、夫人は七十八歳であった。
 門人中で最も勝れたものは、宮前村水房の吉野米三郎であった。
 因みに言う。碑文中にも祐五郎は剣持豫山(要七章行)から暦数の学を学んだとあり、甥の内田千代松氏談にも剣持よりも数学では祐五郎の方が上であったように自ら言っていたと云ふが、剣持が数学の優秀であったことは固より隠れがない。恐らくは剣持に接触すること甚だ少なく、深く剣持の学殖を認識しなかったのではないかと思われる。明治四年(1871)剣持が下総で病死した頃には、祐五郎は二十九歳であるが、今少し此人に従遊し、剣持の関係が比企郡の他処に及ぶことにもならば、其結果は好ましかったであろう。
 昭和八年(1933)建碑の際に、小川町の高等女学校教諭金子慶助氏が、杉山の生れで、親戚を代表して謝辞を述べたが、洋算と和算とを比較し、和算は結果を重んじて理論をやらなかった為めに、実用に適しないで、洋算に圧倒されたと云ふように説かれたと云ふ事である。(水房、吉野俊一氏談)。
 以上の記載を終って後更に杉山に祐五郎の甥金子清蔵(きよぞう)(昭和十四年七十八)を訪う。折悪しく中耳炎で臥床中で会わず、子息慶助氏に会い、同氏から尋ねて貰った結果に依れば、祐五郎以前此地方に十露盤の先生もあったように聞いて居るし、宮前村伊古に算者があると聞き、尋ねてみたところ、開平開立は教えられぬと云ふので、其れでは自分の方が能く知って居ると言って教わらなかったとか云ふ話しもある。
 熊谷の戸根本へは往復して習った。道程は三里ばかりである。戸根本に就く前のことは判らないが、戸根本に師事したのは、越畑(七郷村)の船戸悟兵衛の紹介に依る。戸根本は船戸とは懇意にして居たもので、親戚ではないかと思う。又大付(明覚村)の先生にも、こよみを作る事を習った。
 因みに船戸の事蹟は第二十六節に、又大付の宮崎隆齋は第二十一節に記るす。

 九、吉野米三郎は比企郡七郷村杉山の生れで、本姓は初雁と云ふ。其の家は元と金子氏であったが、殿様へ雁を献上したので、初雁の姓を頂戴したのだ と云ふ。後に宮前村水房吉野氏の養子となり其家を嗣ぐ。明治五年(1872)二十歳で、内田祐五郎の門に入り算術を学んだと云ふが、明治二年(1869) 己巳年二月吉祥日初雁米三郎勉務と署した算術書もあり、二十歳以前から算術に心掛けたものである。初めには生家付近の大蔵院で手習を習って居たから、多少 は十露盤をも教えられたかも知れない。(遺族吉野俊一氏の談に拠る)米三郎の経歴は大概次の通りである。
 明治五年(1872)二十歳、算者内田祐五郎の門に入り、天元を学び、暦算の伝授を受く、謝礼五両で米七俵に相当した。
 七年(1874)二十二歳、前年の事に遡って徴兵検査を受ける。
  八年(1875)二十三歳、大里郡野原文殊寺に天元の算額を奉納した。図を書き彩色を施したもので、円のなかへ円を容れたり、色々と込入って居た。米三郎 は常に言って居たが、文殊寺には算者の額が幾らもあった。自己の額の傍には他算額があって、誤りが書いてある。知らずに上げたのであったろう。算者は六芸 の一に通ずるもので、帯刀をも許されたから、己れは百姓よりも算者を以て身を立てん事を志し、他国へ修行巡遊し、上州から野州藤岡、三夜様までも題を出し ては、先方で答えが出来なければ、教えもして、其家へ泊り、三四日も逗留することもあった。
 九年(1876)二十四歳、熊谷県より地租改正事務担当、杉山村担当人を命ぜられ、担当中は副戸長準席の事と云ふのであった。二男の身でこう云ふのは光栄であった。
 十一年(1878)二十六歳、自分で翌十二年の暦を作り、ぴったり会った。
 十二年(1879)二十七歳、二月水房吉野国三郎に望まれて養子となる。戸長をした事もある。
 三十八歳の時(1890)には私設村農会を設けた。糸や繭を機械に掛けて品評会をやった。其資用は自弁であった。会費は取立てない。
  三十九歳(1899 )、福岡県老農林遠里の稲作改良法試作人になれと、県から選定されて、蟹爪と云ふものが初めて入り来った。之を使用すれば田の草を取るのに、半分の手間で 出来る。十年前に至って田打車になって、蟹爪で一日一反歩のが三反歩になった。手では一日三畝くらいに過ぎぬ。蟹爪はこつちで鍛冶屋に打たせた。
 同年(1899)苗代短開法と云ふ改良法を自発的に始めた。其後県令を以て短開にしないものは罰金を課せられる事にあった。
 右の林の高弟吉村又蔵に三年間学ぶ、招待して家に泊って居り、逗留した事もあった。それで率先して模範を示した。
 宮中の新嘗祭へ県から撰ばれて献上した事もある。之に就き郡長山田夏次郎の手紙がある。
 宮前村は農事に於て県の優勝旗を二年続いて取った事がある。県に三本しかないのである。後には九本になった。第一回と第二回との時であった。
 米三郎は吉野氏へ来てからも十露盤の弟子があった。習いに来たもので、雪や水の時には泊って帰るものもあった。此等の弟子は今は六十歳ばかりになって居る。
  米三郎は入婿後には、農業で身を立てなければ仕方がないと考え、其方へ努力した。養父は後妻を迎えて男子があり、財産をわけて持って出たので、選挙権もな いこととあり、こんな大きな家に居ってこんな事では残念だと云ふので、一生懸命に働くことにした。其為めに十露盤をばめったにやらなくなった。
 昭和十三年(1938)十月二十八日八十六歳で没した。後継者俊一氏は養子である。
  遺蔵の書中には、天元術題(明治六年)、鉤股弦適等(同年)、天元図法(同年)、暦術秘伝之書(七年)、循環暦写(十一年)、明治十二年(1879)暦作 (同年)等があるが、其以後のものは見当らない。此れは養家に来てからは、幾分か教授はしたものの、家事農業に尽瘁して、数学には余り力を入れることが出 来なかった結果である。初めには三七日間の断食をまでして、暦算学習に精進したこともあったが、境遇の変化に依って、一転したのも止むない事であった。若 しそうした事情がなければ、師内田祐五郎と同じように算法の教授に努力したであろうが、実際的傾向の勝れた米三郎は、暦算の学修に依って培い得た精神を別 の方面に傾注したもので、此れも亦算者の間に於ける一つの生きた例証となる。
 宮前村中尾の郷土誌家宮崎貞吉氏の「宮前村郷土誌」に吉野米三郎の伝が記るされて居るが、主として農業経営の事に関し、暦算の事は少し付記されて居るのみである。同誌に内田祐五郎の伝記はない。
 宮崎氏は菅谷の小学校長を勤めた事もあり、同村郷土誌をも調査されて居るが、此外に菅谷、宮前二村に算者のあった事を知らぬと言われて居た。
  米三郎の実家、七郷村杉山の初雁富司氏(明治三年生)の談では、米三郎が野原文殊寺へ奉納した算額は大きなもので、奉納の時をも覚えて居ると云ふ事であ る。米三郎一人で上げたもので、寺の炎上の時までは存在した。川袋の先生は初雁氏へ泊り込んで教えたもので、米三郎は一週間でも絶食で習った。米三郎は 八ヶましい老人で、実家へ来ても整頓して居ないものがあると、色々と注意するのが常であった。酒に酔って居ても、必ず懇篤に注意を与える事を忘れなかっ た。地租改正の時に作った杉山の地図が初雁氏に在り、其時使用の測量器の台だけが残って居る。算木と盤もあったが、今は無い。初雁米三郎勉務と署した算書 が、今も此家に数部残存する。明治六癸酉年(1873)正月の「算法截術書」、同年(1873)五月の「算法拾集書」、同年(1873)八月の「不知段 数」等に関するもの、明治十亥年(1877)の「天元術書巻式」などで、全部養家へ持って行ったのではない。

 九の下。初雁小右衛門は杉山の人で、前期吉野米三郎実家の祖父である。此人は方位などをして居た。誠に丹念な人で、薪割をして手が震るえる時に手習をして、其れで書けなければいけないと言って居た。それで書が上手になった。位牌に

  明治十三庚辰年(1880)三月四日
  誓法亮願居士
  貞叟玅心信女
  文久二壬寅年(1862)閏八月廿八日

とあり、没する時八十五歳であった。生前に酒を好んだ。此人が十露盤をしたか。何うかは判らないが、其遺品の中に小泉松卓撰の「循環暦」、増補和漢 名数、簠簋などがあり、諸真言云々と云ふのは安政二卯年(1855)八月社日写之者也。とあり、名灸之伝授は弘化三午年(1846)八月初旬と記るし、年 吉凶神方に初雁小右衛門と書いてある。方位関係の版刻したものがあって色々と書入れたのもある。
 小右衛門の学識に就いて此れくらいしか知らないけれども、其孫米三郎が此人の老後に成人して算者になる事を心掛けるに至ったのは恐らく全く無関係ではなさそうである。

埼玉史談』12巻1号 1940年(昭和15)9月
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