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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第5節:祭り・寺社信仰

吉田

手白神社縁起(宗心寺蔵)

                藤野豊吉

 手白大明神は、人皇十七代仁徳天皇の御代、当村西南の方に大池あり。池中より夜毎に光を放ち異香紛々たり。村人深く是を怪しみ池のあたりに来りて見れば、不思議なる哉(かな)、ひとりの神女池中より現れ給うを見る。人々小女郎弁才天【弁財天】と唱へ奉る。それより池のあたりに村民参詣の度、手の白き神女を見ること多し。依って小女郎弁天を改め、手白大明神と名づけ、その池のあたりより一丁ばかりを隔てた杉森の中に遷宮し、村の鎮守として崇敬し奉る、今に至って氏子十一軒、歴然たり
 当村に、久安寺という寺あり、本尊阿弥陀如来にして、爰(ここ)に伝唱上人という念仏の行者あり。或る夜睡眠中、手白神社のお告あり。曰(いわ)く「人手や腕の痛み諸病のある者は、我に平癒を祈らば、立ち処に其の痛みを去らすべし、又女人にして呉羽綾羽(くれはあやは)の業の秀達を我に誓はば、呉服の芸の秀達を得さすべし」と、その言葉、猶耳にあるが如く、夢は覚めて影は失せにけり、上人神女のお告げのありがたさを後人に知らせんがため、筆を執り記して本尊阿弥陀仏の御服の中に蔵め置きたり、その阿弥陀仏、今は宗心寺に安置すること年久し。嗟呼(ああ)、手白明神の神徳益々さかんにして、利益あること人の知る所なり。
 嵐山町の伝説、口碑等を記録にとどめ置くことを、今にして成さざればの感を持って折に触れ、古老に尋ねて、収録していた、今度報道の係からすすめられて記述を進めることにした。
 高崎市の南部から八王子市への山の続きは、地質学で昔の八王子構造線といって、九千万年の昔の断層の時関東平野は太平洋の中に没し笠山堂平に近く海が迫っていた。其の後の地殻変動で陸になったり海になったりの変化を続けて、今日の地形をかたちづくった。
 日本海がまだ陸だった頃に、移動した動植物、十万年前に発達したと言われている人類も、関東地方に住むようになったのが約三万年位前からと、今の学説で説かれる。
 隆起した海岸で、貝を採って喰べた原始人は貝塚をつくり、陸地深く入った人々は、石で色々の道具を作って狩もし、川で魚介類を漁った。その人々の恐れをなしたものは、蛇であったり熊であったり、大木であったり、奇岩怪石であったりした。そこに、信仰が生れこれが伝説のもととなった。
 近代科学は、分析の科学と言われる。伝説も一面信仰の部面があるので、それを分析したくないのであるが、現代人は、なかなか承諾出来ない。そこで僅かづつ、説明して行きたい。而し余白が少いので、順次述べていくが、今回は、私の産土神(うぶすながみ)手白神社の縁起について、宗心寺にある記録をお伝えした。比企の神社誌には近代的な縁起が記されているが、古代人に育くまれた素朴な姿に私はひかれて、民俗学的な内容をお伝えした。
 終りに、資料蒐集といってもほんのかけだしお知りの方は教えて下さい。

『嵐山町報道』254号 1976年(昭和51年)1月1日
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