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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第5節:祭り・寺社信仰

古里

重輪寺の位牌座争い

 古里山重輪寺は1774年(安永3)8月新位牌堂(檀家の位牌をまとめて安置するお堂、祠堂ともいう)の建立に着手、同年12月に完成をみた。
 ところが翌年正月古里村の百姓長左衛門、新兵衛から重輪寺を相手取り重輪寺本山群馬郡白川村龍澤寺へ訴えが出された。それによれば、牌堂の普請にあたって重輪寺から先祖の位牌立て位置が少々脇へ片寄るときかされ、元々本堂ご本尊脇に置かれていたものだが、少しの移動は「不苦」(くるしからず)と了解していたが、普請が終わると檀家の位牌を残らず牌堂へ移し、順不同に立て置かれた。約束が違うので再応先規の通り立て置くように願い出たが、外の檀方に差し障(さわ)るので聞き入れられないとのことであったので、止むを得ず本山へ対し、「私共先祖位牌は本尊脇へ立て置かれる様」と訴えた。
 同年2月には上柴村金竜寺、和田山村金左衛門等の内済扱い人が立ち入り、長左衛門、新兵衛一家先祖の位牌は東側初め(好位置)に立て置き、絵図面を差し出すことで内済、訴状の貰い下げを願い出た。
 これで一件落着と思われたが、名主の庄左衛門、茂左衛門が重輪寺、長左衛門、新兵衛を相手取り奉行所へ訴訟に及んだ。要するに長左衛門・新兵衛先祖の位牌が茂左衛門の先祖の位牌より座上に置かれたのは如何(いかが)の訳か、寺と馴(な)れ合ってのことではないかといった位牌座の争いであった。重輪寺は本寺からの申付けで直しがたい旨を主張して譲らなかった。庄左衛門達は名主惣檀中に何の挨拶もなく新規の定を立てることは「心得難し、仕来の通り仕るべし」と訴えた。この訴えに対し奉行所は6月13日「評定所へ罷出(まかりいで)対決すべし若し不参に於いては越度(あやまち)と為すべき者也」と評定衆連署をもって申し渡され、大事件になってしまった。
 そこで先ず返答書を評定所へ出すことになり、同年6月長左衛門、新兵衛は返答書を差し出した。即ち「新牌堂完成後私共に沙汰なく茂左衛門の指図で勝手侭に位牌を配置したが、私共の先祖位牌は少々訳合あり(当寺開山に尽力多分の寄付等をしてきた事)本尊脇へ立て来たったという旧例を本山へ訴え、扱人立ち入った結果、旧例に随って取り計らうことで内済している。茂左衛門達は私共が菩提所と馴れ合って本山へ願い出たことを遺恨に思って提訴したが、そのようなことはないので御賢察下さい」と、また重輪寺も同時に返答書を提出した。事の経緯は前同様であったが、重輪寺としては「縦(たと)い誰が上座に相成り候共強いて拙寺に意見なし、この上は皆で相談して決められたし、尚長左衛門、新兵衛と馴れ合ったとあるが、この出入(争い)の発端は両人が拙寺を本山へ訴えたことにあるのだから、それは言い掛かりである。また位牌座の立て方は拙寺一己の存意ではない」と突っぱねた。
 1775年(安永4)7月の日付で「新位牌堂建立之絵図一枚重輪寺へ預置」とした絵図が残されている。その末尾に「右位牌座順之儀は先規本堂に之有候通相違無御座候」として、茂左衛門、庄左衛門、新兵衛、長左衛門が連署している。また同年8月に賢栄(重輪寺の僧)によって記された一文によれば「長左衛門慥(たしか)なる証拠書付を以申立仍之訴訟人共へ御理解被仰聞先規之通済方被仰付」と、この訴訟の済口証文はないが、位牌座の争いは長左衛門達の主張が通って目出度く円満に解決した様である。
 思うに死後の世界に於いても地位の上下は看過出来ないということだろうか。

参考文献・資料:
中村常男家文書118 安永4年2月「お貰下内済証文之事」、中村常男家文書148 安永4年4月「乍恐書付を以御訴訟奉申上候」、中村常男家文書119 安永4年6月「乍恐返答書ヲ以奉申上候」、中村常男家文書121 安永4年6月「乍恐以返答書奉申上候」、中村常男家文書152 安永4年7月「覚」、安藤文博家文書66 安永4年正月「乍恐右之書を以奉願上候」、安藤文博家文書69 安永4年4月「乍恐書付を以御訴訟奉申上候」、安藤文博家文書75 安永4年8月「記」

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