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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第2節:回顧録・作文

権田本市『吾が「人生の想い出」』

第二部 少年時代

少年時代

 軍国の日本はすでに此の時期から軍事訓練をさせた。指導員は在郷軍人と云って現役から退いた予備のパリパリ上等兵と大尉位の教官【吉野巌大尉】が居た。兄貴達は何時までも家に置かないで期限付きの奉公に出された。菅谷村内であったので夕刻からの補修には出られたように思う。私は兄達より三年遅れて昭和三年(1928)三月二十八日卒業である。
 此の期を前に愈々修学旅行の件である。事前に私なりに考えた。どうしても行きたい。しかし家庭事情からすれば到底行かしてくれるはずがない。兄達も行っていない。そこでどうしたら行かれるか考えた。旅費は嵐山〜江の島、一泊二日で一円五十銭だったと記憶する。先ず資金作り。子供心にうさぎを飼育して売る事にした。母親には話して置いたと思う。しかしそんなに甘いものでは無かった。卒業近くになるも一円はおろかやっと五十銭そこそこ。どうして間に合う訳がない。次の思い付きは着物の代りに旅費をねだること。と云うのは今と違って着物は年二回、盆と正月に買って貰っていた。要する仕着(しきせ)と云って主人が奉公人に季節に応じた衣類を与えることと同じ事で、私達も奉公人のように着物、それから足袋、下駄などを買い与えられていた。あてがいぶち(宛行扶持)で、今の世のように、子供の欲しいものを親が買い与えていたのではない。世が世だからと云ってしまえばそれまでだが、腹のへった時のまずい物なしとは、育ち盛りに云われたことわざ、教訓である。冨五郎さんの訓示の中にもよく出た言葉で、今でも忘れる事は出来ない。今、孫達に云った所で一笑にふされてしまうだろう(笑)。
 さて話は大分脇にそれたが、愈々修学旅行費を作る件。勇気を持って云った。着物を作って(買って)くれなくもいいから、その代りとして修学旅行に行かして下さらないでしょうか。言葉を使うにもお伺いのように話さないとその場ですぐやられる。たとえば、「誰が金を出すのだ。」などなどとね(笑)。持ちかけた自分としては最後の願いでもあった。とうとうあの厳格な親も私の願いを受け入れてくれた。此の時の私の気分は。想像して貰いたい。そしてようやく修学旅行の当日が訪れた。「作ってくれなくも」と云った着物も縞柄のものではあるが作ってくれた。兄妹四人中只一人、私は旅行に行かれたのである。若い時の親と違って気持ちの方にも優しさが出たのか、入学前の一年子守り奉公の事も考慮してくれたのかとも思えた。それと私は負けずきらいもあったがやる事もやったつもり。こうした点は決してマイナスではなかったように思う。そして楽しい思い出の修学旅行。写真は残せなかったが無事終了卒業となる。
 話は一寸もどるが先に着物の話が出たので一言。昔の女の人は学校は六年で卒業させられ、なかなか高等二年(今の中学二年である)まで行く人は少なかった。義務教育が六年だった事もあってだと思う。でも私達の頃は高等二年に行く女生徒も増えて来た。時代もそろそろ変りつつあったのかもしれない。尚、卒業した女の人も補習学校に通い、その中で裁縫など学んだ。しかし貧しい家庭に育つと補習はおろか小学六年卒業で子守り奉公に出されてしまい、雇われた主人宅がいい人でもあれば教えてくれた程度。でも女として覚えなければならなかった事を与えられた使命かのようにして、その人ひとなりに着物を作る事を身につけて来た。裁縫は明治、大正の女の人達が立派に受け継いだ技術ではないかと私なりに思った次第である。私の愛妻もその一人。今ではやらないが、終戦直後暫らくは着物作ったり、編物のつくろいなどすべてを受持ってくれた。「使い捨て」が流行の昨今だが尊い昔の技術も受け継いでほしいと思う。

権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 9頁〜11頁
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