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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第2節:回顧録・作文

権田本市『吾が「人生の想い出」』

第二部 少年時代

少年時代

家庭教育

 今までは作業の様子を話したが、これからは家庭教育の内容の一端を述べる事にする。
 おじいさんと云う人は昔の人で、学校に行った話は聞かない。だが十露盤(そろばん)、珠算に関しては抜群と云うが、九九算、要するに二一天作の五(にいちてんさくのご)は今の塾の先生級であった。その人の教えが夕食後、夜なべ作業開始前数十分、兄二人を前に始まる。私は一年生の時、二の段を半分までやらせられた。兄達は二〜三の段、順次教わる訳だが少々頭の良くなかった長男は十露盤(そろばん)でなぐられた。その早い事。余り感心することでもないが、そこへ行くと私は少々要領が良かった。早くから他人のめしを喰ったお蔭か、それとも恵まれて居たのかも知れない。人は十人十色と云う事も、一を知って十を悟(さと)ることも、子供心ながら機転をきかせないと怒られるんだと常に心がけて居たように思う。知らずしてことわざ通りになったのかも知れない。
 その冬、寒げいことして私は二十一日間、家族の者より先に起床、飯炊きをした。それから湯も沸かし、お茶の支度。又おじいさん、おばあさんの洗面にも湯を入れて出した。私は「勝ち気」と人からも云われた。しかし人の喜びは自分のためにもなる。子供心ながらそう思った。後にこうした気持ちが役に立った時があった。
 しかし子供である。時折失敗した事も起きた。兄弟三人で他人の畑に入りいたずらし、持ち主から苦情云われものすごく怒られた。その時の制裁は次の如くである。
 両足をゆわかれ梁(はり)から逆に吊るされるのである。その頃本家に年老いたおばあさんが居たので、母が頼みに行き、謝って貰い、梁から降して貰った事など。また他でも怒られて家を出て行けと云われ、夜兄弟三人で少し離れた畑にあったサツマイモの床に入って夜を明かそうとした。その時母は心配して、提灯(ちょうちん)を持って探しに来た。今も思い出すが母が良く見当つけたものと。このようにして数年、私が四年生になった時、学校で同級生に怪我をさせてしまった事件があった。説明すると余り長くなるので一時ペンを置く。でも私一人が悪い訳ではない。原因はあった。そのため八十日近く学校を休まされた事を記憶している。要するに厳格なおじいさんである。謹慎(きんしん)の刑であったのかもしれない。当時とすればね。今世紀なら義務教育がやかましく云われてこんなに休まされる事も無かったと思う。
 そして何時も口にする言葉に人間は読み書き十露盤(そろばん)が出来れば良い。他の事は必要なしと云い切っていた。此のような方針に対して子供ながら「ウソ」を云わなければならなかった。学校の授業で図工のある時は綴りかたの紙買うからと云って金を貰う。こうした時の言葉使いも話しようが悪いと、とたんに怒られる。たとえば昔の言葉で綴りかたの紙買いたいのだが買ってもいいでしょうかお伺いをたてる訳。そして許可が下り、初めて金が渡された。こうした数年の学校生活は誠に長く感じた。

権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 5頁〜7頁
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